インカ熱 ② (後日談付き) 792

S木 (貴将)ちゃんと初めてあつたのは、1983年の夏だからもう35年になる。彼は確か15歳の中学3年だったか、中学を卒業していたかもしれない。今や押しも押されぬケーナ、サンポーニャなど南米楽器奏者としては、日本の第一人者にまでなった。

前にS経新聞デジタルの『Ironna 』に書いた「サボりのススメ」通り、というか東京に来る前、鹿児島にいた頃からそうだったのだが、取材に疲れたら一人で銭湯♨️🧖‍♀️に行ったり、ジャズ喫茶に行ったり、喫茶店で☕️☕️サボっていた。

東京でもその延長で、泊まり明けや普段の何もない時は、昼間から気ままにいろんなところに顔を出していた。その一つが、渋谷道玄坂を上りきつった先の右側、もう神泉駅に近い辺りかな。確か『鈴屋』という銀座の甘納豆屋さんの支店があったビルだったような気がする。

この地下にあったライブハウスに夕方から入り浸っていた。そうまだ学生時代の「インカ熱」がどこか燻っていたんだな。おそらくチェ•ゲバラの影響で南米にどこか惹かれるものがあったのだろう。

ここに来て演奏していたのがS木ちゃんで、子供のくせに👶👶ヤケに大人びていて、てっきり20歳は優に過ぎていると思って、「ビール🍺🍻でもウイスキーでもご馳走するよ」と声を掛けた。「いえ、僕まだ15ですから」というので、ジュースにしたことを覚えている。それがきっかけで、彼のコンサートに行くようになったら、会場で「おまっさん」と声をかける奴がいて、誰かと思ったらT橋宗ちゃんだった。もう20年も昔だ。確か五反田の厚生年金ホールだか郵便貯金ホールだか、そんなのあったっけ❓だった。

時々S木ちゃんから新作のCDが送られてきて、N協会の同期や親しい音楽プロデューサーやディレクターに売り込んだものだ。Nスペにいた時、「新しいシリーズのテーマ音楽に」とS木ちゃんの曲を推薦したが、先輩の辣腕プロデューサーK良さんにアッサリ却下されてしまつた。トホホ。すまんS木ちゃん、力不足で。

そんなこんなで、コンサートには行かないものの、たまにCDを聴いては「インカ熱」を熾火のように保ってきた。随分久ぶりの再会だつたが、100キロ以上はあったのが、ビックリするほど痩せていた。思わず「糖尿病になったの❓五反田の良い先生紹介するよ」と心配すると、ダイエットで痩せたという。ひえ〜。 オリジナル曲を2曲、子どもも知っている「コンドルが飛んでいく」を演奏して終わった。司会のTビーエスアナウンサーは綺麗なお嬢さんだったが、退屈そうに演奏を聴いているのが気の毒だった。そりゃ1日4回も同じことをやらされ、同じ曲を聞かされてるんだから、最後はげんなりかもしれないな。入社一年目だろうか。お疲れさん。

社長のT(田信ニ)ちゃんは、自分の会社が主催しているこの「古代アンデス展」を観に行ったのかな❓「凄く面白い🤣🤣🤣から見ろ」って教えたろう。

翌日(24日) Tちゃんに電話をかけたら重役会議の最中で、後から電話が来て、展示会に行ったかどうか訊くと、「開会の時に行ったけど、そんなによく観んかったなぁ〜」というから、「18日までだからもう一度行った方がいいよ」と言っておいた。流石に記者から営業に変わっただけあって、「入りはどうだった❓」と聞くから、「2回ともいっぱいだった」と教えてあげた。社長はこんな小さいことは知らんわなぁ。休日にゴルフなんか行かんと、そんな連中と一緒に『古代アンデス展』に行って、帰りはアメ横で飲んだ方が愉しいよ。

帰りは例のごとくアメ横の『文楽』に立ち寄る。運良く最後のテーブルに。あのニンニク味噌焼き鳥、煮込み、ポテトサラダ (初めて食べたがこれもかなり美味い) などで、熱燗やハイボールを飲み、宗ちゃんの話を聞く。

酒を飲んだ後にサウナに行ったり、風呂に入る話を聞いてテビ様(家人)が、「宗ちゃん、お風呂場で孤独死なんかにならないでよ。お酒飲んだら(お風呂)入るのやめなさい」と何度も言っていた。この後宗ちゃんは、背中に哀愁を漂わせながら、上野のサウナに消えて行った。

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