恩師の死 ② / 524

 3月6日の午前2時過ぎ、先生が亡くなられた時刻に私は何をしていたのか?よくドラマなどで、虫の知らせというのか、亡くなったばかりの人が夢枕に立ったり、何かその人と関係している事象が起きたりする場面がある。アレは、霊の存在をフレームアップした創作だからと端から信じていなかった。6日にお嬢さんから亡くなった時刻を聞き、ビックリしてしまった。

  私には、25年以上に亘って”午前2時のトラウマ”がある話は先に書いた。昨日もいつも通り午前2時前に目覚め、何を始めたかというと、リビングの書棚の大改装をしていたのだ。これも以前書いたが、Kindleを使うようになってから、iPadやiPhoneでも読めるようにと蔵書を片っ端から自炊し始めた。つまりカバーや背表紙を断裁して本の外側を外し、中身だけスキャンするのだ。この機械を隣の研究室のL洪千さんが持っていて、学生に頼んでアルバイトでせっせとスキャンして、パソコンにため込んでもらっている。最初に実行したのが、我が家にある蔵書の内、もう読まないか『大菩薩峠』などのようにKindleの青空文庫でタダで読める本は、積極果敢に捨てていった。お陰で蔵書の3分の1は、一昨日の日曜日に資源ゴミとして大量に放出できた。処分本で出来た棚の空いたところに書斎の本を移動させていく。

  

 脊柱管狭窄症で長時間立っていられないため、天井ギリギリまである本棚の下から先に埋めていこうと作業をしていたのが、何と何と、小島晋治先生の著作を中心にした中国関係図書の入った棚だった。それが午前2時台だったのだから偶然とは言い切れないものを感じてしまう。そこには私が1973年春から駒場の教室で板書した先生の「東洋史概論」の講義ノートも残っている。それらを眺めながら、去年の秋にお見舞いに行ったきりだから、桜が咲く頃には、また顔を出そうと思ったのだが、不思議と言えば本当に不思議な話だ。さてなぜ小島先生と出会うことになったのか、まだまだ長いイントロ(序奏)が必要である。

  話は原子力空母エンタープライズ反対闘争に触発された高校1年の冬にさかのぼる。たしか1月20日前後の頃だった。急行電車を乗り継いで佐世保に行った私は、度肝を抜かれた。これがデモというものか。将に市街戦の感があった、といったところで映画でしか観たことがないのだが。この興奮を抱えたまま杵築に帰るとすぐに幼稚園の頃からの竹馬の友、故・Y崎雄一に3日間の話をした。すぐに「杵築高校反戦共闘」を作ろうと言うことで意見が一致。日頃から仲の良い7、8人のメンバーが集まった。春休みになると外では大学反乱の嵐が荒れ狂い、我々もN崎恵弘の下宿生に集まって今後の戦術を立てたり、八坂川の上流で火炎瓶の投擲を試したりした。集会の日に大分大学に行くと、上野丘や舞鶴、鶴見丘、中津北からも高校生が来ていて、高校生の総数は大分大学の全共闘とどっこいどっこいか少し多かったような気がする。我々は大学生に混じって、大分市内をジグザグでもしたり、大学の集会に出て怪気炎を上げたりした。

  だから私は原発再稼働粉砕や安保法制粉砕などで国会デモに何度も行っているが、今のはデモなんてもんじゃない。まぁ当時もあった代々木風のデモだ。しかし意思表示することが重要だと思い直して参加している。去年の夏は熱中症に2回かかって周囲を心配させた。

  そんな中、誰からともなく、恐らく私だろうと思うが、「頭髪の自由を訴えて、高校をバリケード封鎖しよう」という話になった。それは瞬く間に生徒たちの噂になり、まぁ我々が意図的に流したのだが、明日決行という前日の夕方、高校側の確かK野先生という、ごま塩頭の総務担当の先生が「交渉したい」と言ってきた。その結果5月の連休明け。全校集会が開かれ、戦前からの丸刈りの伝統に終止符を打ち、頭髪の自由が認められた。後日談がある。もう15年ほど前だろうか、母校から記念講演を頼まれ出かけていくと、校長が、「ここにいる小俣先輩は、君たちがいま自由に髪を伸ばせるようにしたご本人です」と紹介したのには驚いた。こういう話は、引き継がれているのだな。

 こんな日々を送り続けていれば、自ずとそれからも想像できるだろう。小島先生に会うまで、あと3年。

スポンサーリンク

フォローする

スポンサーリンク