昨日(29日)の夕方、Kんちゃんからメールで、早川信夫君が脳溢血で亡くなったと連絡をもらった。これは大ショックだった。記者や記者出身者に若死傾向があることは、自分でも頭では認識、納得しているのだが、彼はおそらく享年63、4だから若すぎる。いつも笑顔を絶やさず、腰が低く、丁寧で、理不尽なことを見逃せず、いわば正論、正義のジャーナリストだった。お世辞抜きで本当に優れた記者だった。ながらく文部科学省を担当し、人脈が広範囲で、解説委員になってからもその流れは脈々と続き、誰もが「早川の前に早川なく、早川の後に早川なし」と思っていたし、今も思っているだろう。
▼事件記者の私と教育文化の旗手・早川君とが、特に親しかった理由は不思議な縁である。B藝春秋のいまは常務をしているK俣正剛やG阜女子大学のS山博文理事長が共通の友人だったからで、「和敬塾」繋がりである。
▼和敬塾は、1955年に前川製作所(世界一の冷凍機メーカー)の前川喜作氏が私財を投じて設立した東京目白にある男子学生寮で、7000坪の敷地に東西南北の他、巽、乾を冠した6つの寮から成る。出身者は、政財官学マスコミ界に幅広い人材を輩出している。加計疑惑で注目を集めている前文部科学省事務次官の喜平氏は、喜作氏の孫にあたる。また妹が中曽根弘文参議院議員の夫人だから、中曽根康弘元総理は、ごくごく近い親族になる。
▼和敬塾は、知る人ぞ知るユニークな学生寮で、村上春樹さんも入寮していたことで知られる。『ノルウェーの森』でその生活ぶりが紹介されている。かつての北大惠迪寮や京大吉田寮を彷彿させる、まさに昔ながらの『寮』そのものがある。
▼もちろん私だけは和敬塾出身ではないが、Kま(俣)やんと親友だった関係で、S山、早川の両氏を知り、親交を深めた。阪神淡路大震災の時は、私が現地の前線デスクで、彼がサブデスクだったので、どうにか難局をこなすことが出来た。
▼1997年の秋だったと思う。Kまちゃん、S山理事長の3人で飲んでいたときのことだ。入塾生が激減して、かなり苦戦していた和敬塾の話を聞いた私が、「今の時代には珍しい学生寮だから紹介する価値は十分ある。俺と早川君とで番組作ったるわ」と安請け合いしてしまったものの、どうすれば実現できるか考えあぐねた。そこで私がN協会で3兄貴(Y野敏行、I手上伸一各氏)の1人と慕っていた故・滋野武さんに相談したら、「面白いね、記者だけで番組を作ってみたら」と助言してくれた。当時の滋野さんは、たしか報道局長か編集主幹で、とにかくE老沢勝二会長の右腕としてドンドン頭角を現していた時期だったので、局内の抵抗は全くなくすんなり提案は通った。
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▼ゴーサインが出たところで、早川君とO倉啓志君の記者3人で、1998年4月から99年の1月まで、3人の新入寮生を追いかけたドキュメンタリー『東京学生寮物語〜和敬塾の青春〜』を制作した。プロデューサーもディレクターもいないため、構成から映像にいたるまでどう作れば良いのか大いに悩んだ。その時相談に乗ってくれたのが、N協会では鬼才として知られていたプロデューサーのK頭春樹さんだった。「天才と言われる凄腕の編集者を借りてくることが、作品の勝負を決めるんや」と変な関西弁で大いに笑い、名指ししたのがY岡雅春さんだった。今でもそうかも知れないが、「大賞請負人」と言われるほど、彼が編集した作品は、ことごとく国内はもとより、海外の大きな賞も獲得し、クオリティの高い番組編集で有名だった。
▼ところがY岡さんは、当然のように超売れっ子で、1年先までほとんどスケジュールが詰まっていた。そこで赤坂にあった(様に記憶している)彼が所属する編集会社に早川君とOグ(倉)ちゃんと3人でお願いに行ったが、社長はスケジュール表を見せながら、「とてもとても・・・」とラチが明かなかった。何度かでかけたが「ない袖は振れぬ」とばかり、申し訳なさそうに断られた。
▼再び滋野さんに相談すると、Y岡さんのことは名人だと知っていて、「あの番組も、あいつの番組もY岡ちゃんが編集してたんだ」と話すのには吃驚した。その上で、「じゃ帯(何日、何日と長い時間)で時間を取るのではなく、Y岡ちゃんの隙間の時間を貰えないか訊いてみたら。報道局の予算で作るからそっちの方は心配しなくていいよ」と思い切ったことを言う。「金と人事を自由自在に動かせなくては権力者たり得ない」ことをこのとき学んだ。そりゃそうだわな。
▼取材は面白かった。新入寮生の東大、早稲田、神奈川の1 年生の日々をカメラが追う。最初有り難迷惑そうだった和敬塾も、OBの早川君がいることで、スムーズに取材も撮影も進み、普段は公開しないようなところも、早川君のひと言でアッサリOKになった。しかも塾の行事や日程も早川君が早々と掴んでくれて、取材スタッフを安心させた。こうして入塾の日から先輩寮生の卒業追い出し会までを追った番組は、1999年2月11日に「祝日枠」で放送された。
▼別にこの番組が功を奏したのかどうか分からないが、その年から和敬塾の希望者が殺到し、これを見た私の鹿児島時代の恩師のひとり、M日本新聞論説委員長のH本勝紘記者の一人息子周平君も入寮した。いま和敬塾のホームページを見ると、私たちが取材した当時の東、西、南、北寮だけでなく、新たに乾寮、巽寮も出来て、どうやら隆盛を極めているようだ。これも早川信夫君の尽力の賜かも知れない。
▼通夜は9月1日午後6時から、告別式は2日午前11時から、いずれも文京区の護国寺で行われる。
(写真は全て『和敬塾ホームページ』から引用)