【当時の前線他 写真掲載】人生いろいろ 1100

スクラップをしていると『日刊Gンダイ』31日付の5ページに元◯HKの後輩だったA澤冬樹さんが、◯HKを退職して、今日9月1日から『O阪日日新聞』の記者になるとあった。

島倉千代子さんじゃないが「人生いろいろ」あっていい。記者が好きで、今度は「新聞」記者になるというのも、わかる気がする。

彼とは社会部で何年か一緒だった。私が2001年に「考査室」に異動になったから、その後のことは全く知らない。彼が辞めた理由が、「森友問題に関するスクープの連発」で、「大阪考査室に左遷された」からだという。が、よく読むとA澤さん自身が、スクープを連発したことや異動が不満で辞めたと話しているわけではない。「記者を続けたい」からだそうで、そこからの推測として『日刊Gンダイ』の記者が書いているに過ぎない。まぁオフレコ❓で聞いたのかも知れない。

「記者」なんてどこの部署にいても出来るんだけどね。私は考査室時代は、「大倉喜九郎」「坂上遼」のペンネームで、雑誌の『世界』(I波書店)や『現代』(K談社)に書いたり、『無念は力〜伝説のルポライター児玉隆也の38年』(情報センター出版局)を出版したりしていた。

A澤さんとは、ひとつだけ思い出がある。阪神淡路大震災の時に出会ったのが初めてだった。というのも私が神戸の前線デスクで、全ニュース、番組の責任を任されていて、確か山口か広島から応援で来てくれたのがA澤さんだった。

▲いずれも当時の報道写真からの引用

それだけなら記憶の彼方だろうが、後味の悪い思い出があるからハッキリ覚えている。震災の翌日現地に入った私は、その前日、つまり震災直後に社会部にいた即戦力になる優秀な記者たちを名指しで現地に送り込んだ。

去年亡くなった早川信夫君や今理事をしているO木紀之君、M坂千尋君たちもその時のメンバーだ。この中には、K堂靖洋記者もいた。彼は、その後社会部や科学文化部でスクープを飛ばし、良質の番組を作っているが、当時は確か社会部に来たばかりだったような気がする。

▲ 長田地区の被災現場

現場では、24時間放送を出さねばならず、人手が足りなかったので、全国に応援要請していた。各局から1〜3人、これにカメラマン、ディレクター達が加わるから取材を指揮するデスクが足りない。

▲ 前線でのT木記者とM坂千尋記者

そこで私が考えたのは、社会部記者たちに「(仮)デスク」を命じて、地方応援組の指揮に当たってもらった。その時、たまたまA澤さんをK堂君の指揮下に入れたら、双方がモゾモゾしていてボソリと言った。「A澤とは同期なんです」困った顔の2人を見ながら、「そんなことは関係ないよ。仕事になったら同期も先輩もないだろう」と叱った。

▲早川信夫君が撮影してくれた長田地区の被災現場で 1週間め位か

あの時、原則論でそう言ったけれど、自分がA澤さんの立場だったら嫌だろうし、俺なら腹を立てて帰っていたかもしれないとその場で思った記憶が、今回の記事で蘇った。でも俺なら(M上)格ちゃんやS(秀人)ちゃんたち同期の指揮下だったらホイホイやっていたとも思う。

彼を覚えているのは、その時のことぐらいで、社会部にいたときは、ほとんど接点がなく、記憶にあるのは、背が高い、無口な人だったような。でもそれは私が喋りすぎで、相手が話す暇がなかったせいかもしれない。『日刊Gンダイ』には、「スクープを連発」と書かれてあり、凄いなぁ〜と驚いた。当時は能ある鷹🦅🦅🦅が、爪を隠していたのかもしれない。

私もそうだが、別に◯HKに入りに来た訳ではなく、「記者」になりたかったのなら「至るところ青山あり」だ。

私は考査室に行ったお陰で、執筆の他に、3年間ずっと朝から夕方まで、毎日ドキュメンタリーやニュース、過去の様々な番組を見ることが出来た。それが仕事だから当たり前だけど。いい勉強になった。

記者時代は夜回りに忙しく、例え面白そうな番組をビデオに撮っていても見る機会がなかったから、実に有意義な日々を過ごせたと思っている。しかもその間、大学の講師に呼ばれたのがきっかけで、定年後大学に移ることができた。「人間万事塞翁が馬」であり、人生いろいろだとつくづく思う。『O阪日日新聞』でスクープが、続々掲載されることを愉しみにしている。

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