【追記 御礼】100年 100歳 1111

今日9月9日は、重陽の節句である。そのタイミングを狙ったのか、今朝の毎日新聞に、諸橋轍次博士の『大漢和辞典』デジタル版が発売されるとの全面広告が掲載されていた。

その広告には、出版元の大修館書店が、創設100年になると書いてあった。有斐閣が1877年、新潮社が1896年、講談社が1909年、岩波書店が1913年、平凡社が1914年、小学館が1922年、そして大修館だ。

『大漢和辞典』は、通称『諸橋漢和』と言われていて、大雑把に言って『中国(学)』を学ぶ研究者や、志す、あるいは志した者には、避けて通れない東洋の名著、いや世界の名著と言っても異論は出ないと思う。とにかく欲しい本、辞典の最高峰だった。

学生時代、確か全12巻(途中から13巻になったはず)だったかと思うが、欲しくて神田の青果市場で午後9時から朝5時まで(日当 1750円と、当時1250円が相場のバイト料が破格の高さ)働いた。夏休み中だったので、夜中の0時過ぎるとバイトの親玉みたいなオヤジさんが、「おい、小俣、今日は2個だなぁ」と言って、私や他の学生バイトにスイカを🍉🍉落として割るように唆す❓いや命じるんだなぁ、それをみんなで食べていた。冷えているわけではないけど、喉が渇いていたからみんな貪るようにかぶりついた。

で、その金で『諸橋漢和』を買ったかというと、余りに高すぎて、古本屋さんで、いくらかな当時7万円ぐらいかなぁ❓月3万円の生活では手が出せずに、1500円から2000円台だった平凡社の『中国古典文学大系』60巻に化けた。

12巻と60巻だと後者の方が大変だと思いがちだが、『諸橋漢和』は、いわば東洋の百科全書のような字引であって、1巻ずつ買って読むという感じではなかった。

後者は、『儒林外史』や『官場現形記』とか、中々読めない作品が入ったシリーズで、夢中になって読んだ。確か卒業するまでに、42〜3巻まで読み終えたところで、NHKに入って鹿児島に行ってしまった。

記者時代は、本を読むより身体で覚えることばかりが多く、東京に行ったら文化記者になって、沢山本を読み、絵画を観て、音楽を聴いて、舞台や映画を鑑賞することを夢見ていた。なんじゃ⁉️事件記者だなんて。

33歳から38歳までの同棲時代は、彼女に良いところを見せようと、仕事にも、昼夜の私生活でも頑張っていたから、これまた本を読むことは、2の次、3の次になった。

48歳で考査室に異動になってからやっと文化記者の様な生活を送ることが出来た。25年ぶりの「読書人」的日々に戻ったわけだ。

で、『諸橋漢和』だが、買ったのは、その考査室に移って、金も時間も余裕が出来てからのことだ。その頃には、古本屋さんで3万円ほどだったから、躊躇することもなかった。神田神保町の『悠久堂書店』だったはずだ。

この『諸橋漢和』が出てからでも70年以上経つ。33年前に死んだオヤジの箴言は、「焚くべきは枯れ木、読むべきは古典、持つべきは好き友」だった。歳をとるとその意味の深さがじんわり解ってくる。66歳を過ぎてから、最低月に1冊は『世界の名著』『日本の名著』を読むことにしている。

父が死んだのが67歳なので、自分もその歳は超えたいと願っていて、いつ万一のことがあって、向こうの世界でオヤジに会ってもいい様に、しっかりは今更無理でも、少しは古典を読んでおかなくっちゃという意識がある。でも読んでいるとすぐ眠くなる。これがまた好い。

▲父の「座右の銘」というか好きな一節で、よく話に出てきた。

子曰、「賢哉回也。一箪食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂。回也不改其楽。賢哉回也。」(論語 「 雍也第六」第9章)

父の箴言と言うより、遺言は分かりやすかった。「酒と金と女性の扱いでその人間が分かるから気をつけよ」と至ってシンプル。歳を取って、もはや人生を振り返ることが多くなった。それほど気にもしなかった父の言葉が思い出される。

自信があるのは、酒で失敗したことはない。美味く飲みたいと思っているので、無理だと断るし、途中で水を飲むことも初任地の鹿児島で覚えた。

金も汚いとかケチだとか言われたことは無い。むしろ父の言うように「金のことは話題にするな」を守って来たつもりだ。だからアバウトで、ザルで、いつもどんぶり勘定で、取らぬ狸の皮算用となりがちだ。そのせいか金にはトンと縁がない人生だった。身の丈にあった生活、ほどほど、普通が好いのだ。

ただ思い起こせば、一つだけ失敗があった。42歳のとき、大分2区から出馬の要請を受けたことがある。1月6日から4月27日まで、ほぼ連日、電話や直接議員会館に呼ばれたり、司法クラブまで訪ねて来たりして説得された。その時断る理由として、「議員より記者の方が、実質収入が高いのに、苦労が多い議員になるのには無理がある」を上げたことがある。

これは親友の助言を受けての逃げ口上だったが、あれで「小俣先生の息子は、金のことを言う人だ」と思われてしまった。赤坂『とど』のおかみさんから、「大分じゃ一平さんのことをそんな人だと思ってるわよ」と忠告してくれた。が万事休すだ。まぁ沢山オヤジの顔にドロを塗ってしまったうちの一つだ。

しかし女性には弱かった。鹿児島時代に知り合ったMちゃんが魅力的過ぎて、いっぺんに参ってしまった。全てはアソコから始まった。

人生が2度あれば何処から始めたら好いのだろうか❓Mちゃんとサンローゼで会ったときからなのか、Sヤンから裁判所の南門で呼び止められたときからなのか❓会うたびにテビ様に逃げた彼女(=Sヤン)の愚痴を聴いてもらった39歳のときからなのか。

▲父が好きだった木槿の花 (中学時代からの友人 S井啓二からの指摘で、前の写真は「芙蓉」だったので差し替えました。啓二ありがとう😊😊😊)

中学2年の時、I 林宏に会っていなければ、私も吉崎雄一も共産主義に関心もなく、普通の平凡な学生生活を送っていたかもしれない。

どこかに分岐点はある。ただオヤジが言った「女性に気をつけろ‼️」だけは守れなかったのが私の66年間だ。いやいや、今のままでいいのだ。これはこれで愉しい日々だったのだから全く後悔はない。

唯一の親孝行は、『九州日報』の祖父、『毎日新聞』の父に継いで、記者3代目になったことぐらいだ。でも「売り家と唐様で書く3代目」とも言うから、あちらに行ったら何と言われるやら。

来年2月で67歳。父がガンで死んだ年齢になる。その父は1918年(大正7年)生まれだから、生きていれば今日で100歳になる。(鹿沼にて)

【追記】御礼

長い間アホな、屁のようなブログに付き合ってくれた故郷や上京後に親しくなった友人諸兄姉、ご高覧ありがとうございました😊😊😊❣️

「見切り千両」と言います。1000回で止めようと前々から考えていましたが、ついつい「見切」れなくて、この際だから1111と1並びにしようと、長くなってしまいました。

昨日はわざわざ横浜青葉区から横浜のキツネ🦊ことM森直昭さんが弓立社に遊びに来てくれて、『世界の山ちゃん』で夕方から飲みました。皆さんも神田小川町界隈に来た時は、声をかけて下さい。すこぶる好い店が沢山あります。愉しく飲みましょう。

私の安否は、隔週月曜日(祝日休刊)連載の『日刊ゲンダイ』「ニュース深読み裏読み」で確認戴けたら幸いです。坂上遼(小俣一平)拝

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