この二ヶ月の憂鬱 (1465)

もう4月1日になってしまった。前回は2月6日に書いたから、2ヶ月近くの空白だった。「立ち食いそばうどんの会」のFacebookには、気楽に投稿出来たのだが、ブログに向かうには、このことを書かねばならず気が重かった。

<写真はNHKの映像からの引用 (私が持っているのは、酔っ払っているところばかりなので)>

というのは弓立社の先代代表の宮下和夫さんが2月10日に亡くなられたのだ。宮下さんだけでなく、去年から私の親しかった人たちが、次々と鬼籍に入った。8月15日に文藝春秋の社長だった松井清人さん、同じ日に赤坂『とど』の女将さん、私が姐さんと呼んでいた手嶋恵子さん、11月には兄貴のような存在だった作詞家の喜多條忠さんと続いた。

そして12月には、NHKの後輩ながら、とても尊敬していた藤木達弘さんと、さすがに参った。3人についてはすでに書いたいた。藤木さんと親しくなったのは、阿部文男代議士の受託収賄事件で函館入りした時に、番組を作るために彼がやって来たのがきっかけだった。司法キャップだった私は、この手の事件が好きなので、本来なら霞ヶ関の司法クラブにいるべきなのだろうが、故伏見俊之サブキャップに任せて現地入りしていた。

司法クラブや函館、札幌局管内からの応援組の記者たちが集まって昼は関係者の取材、夜は捜査指揮をとる東京地検特捜部検事たち、地元函館地検の検事たちを回るのだが、取材内容を書いた夜回りノートは、情報を共有するために記者とデスクが読むもので、部外者は読めない。

そんな中で、藤木さんに、「ディレクターとは仲間なんだから、全部勝手に読んでいいし、必要なところは全部コピーしていいよ」と言ったら、「えっ🤯🤯本当ですか」とびっくり😵していた。あの時のリアクションが今も鮮明に思い出される。それですっかり打ち解けて、他の記者たちとも親しくなったようだ。その後の彼のディレクター、プロデューサーとしての活躍は、NHK関係者ならずともよく知られている。まだ60歳という若さで、告別式で泣きじゃくる奥さんが痛々しかった。

最期にあったのは、2017年だったか、親しい友人たちと千葉市の美術館に、1960年代の学生反乱の展覧会を見に行った時に、そこで彼と再会した。短い時間だが立ち話をした。

これからも、こういうことが続く年代になったことを再認識したばかりのところに、今度は宮下さんの訃報だった。すぐ翌朝ご自宅に駆けつけようとしたところ、奥さんは看病疲れで寝込んでいるとの息子さんの話。しばらくして共同通信から取材を受けたので、連絡先を伝えたことがきっかけで、ようやく元気を取り戻した奥さんから連絡を戴いた。

私と宮下さんとの関係は、ブログや弓立社のホームページに書いてあるので繰り返さないが、弓立社の第1作目、吉本隆明さんの『敗北の構造』の「あとがき」を読んだことがきっかけだった。あれが1972年のことだからもう50年経つのだ。

 

スポンサーリンク

フォローする

スポンサーリンク