ふるさとへ廻る六部は / 556

    去年10月、50年目の中学校の同窓会に出席したので、半年ぶりの帰郷だ。今回は幼稚園から高校まで、まさに絵に描いたような竹馬の友、吉崎雄一通称雄ちゃんの1周忌の法要に出席するためだ。雄ちゃんとの思い出話を書き出したら原稿用紙が何枚あっても足りない。

   法要は臨済宗南林寺派の安住寺で11時から始まった。私は40分ほど早く着いて、吉崎家の墓参りを済ませてから本堂に顔を出した。まだ誰も来ていなくて車に戻ろうとしたとき、仙台から遺骨を持ってやって来た奥さん、娘さん2人の3人と出会ったので立ち話をしていると、同級生がドンドンやって来た。


法要と納骨

ついでに、廃屋寸前の我が家  20年以上空き家状態

    和尚さんの読経に合わせて、我々も経典を見ながら般若心経などを唱和する。大勢来たので雄ちゃんも喜んでいるだろう。杵築に残っている同級生の数がしれているのだから良かった。納骨の後、一旦奥さんたちと別れて、偲ぶ会の会場へ。もちろん昼から「いち屋」で一杯飲もうという段取りだ。同級生9人に途中から加わった奥さんのE子さん、M有子ちゃん、A紗子ちゃんたちに、小学校の時はどうだった、中学の時はこうだったと昔話を聞かせてあげる。

右から3、4、5番が雄ちゃん一家   左端が私

        

小学校3年、4年の時の担任  S藤孝義先生 新聞作りを教わった恩師でもある現在96歳 

   M藤高弘が、「中学時代の数学の授業中、前と後ろの席で五目並べをしていて、後ろを向いていた雄ちゃんに先生が、『この問題の解答は?』と尋ねたところ、サラサラと答えたのにビックリした」と披露すると各人から「いつも数字の試験は、満点だったから98点とかを取ると、先生が『吉崎どうしたんか?』と聞くほど良く出来た」とか、「T北大学に行ったのも好きな数学の教授がいたからで、とんでもなく良く出来たから数学者になるかと思っていた」とか次々と思い出話が。

    しかしすでに書いて来たように、高校時代に共闘会議を結成して学生運動に熱を上げていた我々だったので大学進学後、彼は四トロ(第四インターナショナル)で活動し、2年生になる前に中退。そこから労働運動、全国一般で活躍していた。成田闘争の頃はよく私のアパートに泊まり込んでいた。もう45年も昔のことだ。

    社会人になるとお互いに疎遠になったが、電話ではたまに近況を語り合っていた。糖尿病と心筋梗塞の合併症で亡くなった時は、授業があったが終わるとすぐに新幹線で仙台に行き、通夜に出た後とんぼ返りで戻った。だからE子さんたちに彼の昔話をする時間がなかった。

    私の思い出話は・・・雄ちゃんと手嶋柔一郎(じゅっさん)と私の3人は、とにかくいたずらばかりしては、職員室前の廊下に座らされていた。小学3年生の時、初めての習字の授業で、担任のS藤孝義先生が「習字の時は必ず不届き者がいて、墨をすった途端誰かの顔に・・・」と言い終わらないうちに我々3人は塗り合いを始めていた。もちろん耳を引っ張られながら廊下に。

    この3人が中学3年生の時、生徒会の役員に立候補した。生徒会長が私、雄ちゃんは副会長、じゅっさんは書記長で、女子の副会長には私が拝み倒して可愛いいT中栄子ちゃんに出てもらった。出ないと3人が苦手な女の子が、無投票で女子副委員長になってしまうからだ。我々4人は全員当選したが、職員会議で「今度の執行部はT中以外は、ひどい連中ばかりだ」と話題になったそうだ。こうしたことを何十回も繰り返した挙句、18歳の時にふるさとを後にした。

   この歳になると帰郷する回数がやたらと多くなるのは、やはり気持ちのどこかが弱くなっているのだろうか。藤沢周平さんに『ふるさとへ廻る六部は(気の弱り)』という作品がある。

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