雑魚亭日乗 三たび (1112)

口上

これはFacebook終了にあたり書いたものですが、このブログを読んでくださっている古くからの友人、知人のみなさんが、Facebookに目を通しているとは限りませんし、「友だち申請」を受けて、友だちになった方が200人余りいますが、このうち2~30人が読んでくださった程度を考えたとき、なぜFacebookからブログに戻ったのかを分かって頂けるかと思い再録します。

TwitterFacebookに縁がなかった私が、昨年(2019年)の2月から友人たちに勧められて始めてみました。前者はかなり攻撃的な内容の人が多く、その反応にもゲンナリして、私向きではないと止めました。
 
FBは時間や気持ちに余裕があるとき、とても楽しく読ませてもらい、それに触発されて私も色々身辺雑事を書かせてもらいました。特にコロナウイルス🦠🦠禍のこの23ヶ月は、結構癒される情報伝達手段でした。
 
2010年にN協会を定年退職し、T京都市大学の専任教員になった直後から、『雑魚亭日乗(ざつぎょていにちじょう)』『超芸術トマソン的雑魚亭日乗2』『風信』のタイトルで1211回にわたってブログを書いていました。
 
報道局や研究所にいた時は、発信する何らかの手立てを持っていましたが、現場を離れてみて、自分のメディアを持つことの意義や必要性を感じるとともに、新たな地平を模索しようと始めた試みでした。
 
幼稚園、小、中、高、大学、大学院、職場、取材先、会合、飲食店など諸々の場所で知り合った100人位の人たちの顔や名前を思い浮かべながら書いてきました。それこそ細々とした個人商店のメディアで、ジャーナリズムの範疇に日記も含めるのなら、それに近いものでした。
 
それをこの「コロナ非常事態宣言解除」を機に、近々復活させることにしました。もし暇なときや気が向いたときに、お立ち寄りください。 
 
タイトルは『雑魚亭日乗 三たび』ウリは、従来通り「まるでお主は屁のような」日々の暮らしを綴ったものです。
 

人には色々な生き方があって、私は小学校3年生の時から「壁新聞」「謄写版新聞」「学校新聞」で育ってきましたので、50年以上も物を書くという行為が常態化しているのです。その延長線上に、68歳になっても、まだタラタラたわいもないことを書いている爺さんがいると思って御笑読いただければ幸いです。

「雑魚亭日乗 三たび」

ようこそ雑魚亭へ。知る人ぞ知る私(坂上遼)の個人新聞です。TwitterやFacebookを昨年2月からやってみましたが、「帯に短し、襷に長し」の感があり、好き勝手書ける気軽なブログに戻りました。

きっかけは、鹿児島の元M日本新聞記者・H本勝紘さんが、30年前に始めた「めだかの学校」という鹿児島市内を流れる甲突川(こうつきがわ)をメダカが棲める川に生き還らせよういう運動についてまとめた本がこのほど出版された事でした。

別に環境問題について書きたいからではなくて、私が記者として曲がりなりにも今日までやってこれたのは、H本さんをはじめM日本新聞の数多くの記者たちに育てられたからで、あの44年前に遡って、思い出したことを徒然に書き留めておきたいと考えたからです。

それに、Facebookで親交が復活したN協会の大先輩Y村秀實さんの「内外タイムス」をはじめとする思い出話に触発されたこともあります。今や「内外タイムス」を、名前以外で実際知っている人は60代以上の僅かな人かもしれません。

実はブログを書くにあたって、若い友人のY俊ちゃんの力を借りました。1年半近くも触っていないとワードプレスの扱い方を忘れてしまっていて、まずそのやり方を、続いて凍結しておいた1211回+選挙の期間だけ少し書いて見た「るぽるたーじゅおまた一平」の7回の過去のブログをSNS上に復活してみようと、先週(5月22日)指導を受けてきました。

しかし習った通りやって見てもうまくいかず、思案にくれていたところ、昨年夏の参議院議員選挙に出た際、応援に来てくれた元の勤め先T京都市大学メディア情報学部3年のO岩潤矢さんが、ライン通話を活用して教えてくれました。若い人たちに支えられての、「三たびの海峡」ならぬ「三たびの雑魚亭日乗」となりました。若い二人の友人に感謝するとともに、締め切りがないのでゆっくり、のんびり、書き続けていきたいと思っています。

前講釈が長くなりました、それではよろしくお願いいたします。まずはご挨拶まで。

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