老人力、古き良き時代の愉しいとこだけ思い出す 941

突然懐かしいデスクからメールを戴いた。同僚は誰もが「タメさん」、先輩は「タメ」、後輩は「ヤマタメさん」と呼んでいた。

誰からも愛称で呼ばれるのは、ご本人の人柄の良さから来る親近感のなせる技であろう。本名は、Y本為三。そのヤマタメさんが、どうやらこのブログを読んでくれて、そこにあるアドレスにメールしてくれたという訳だ。

昨日は『B藝春秋』の古き良き仲間たちの話を書いたばかりだが、ヤマタメさん時代の◯H K社会部も楽しかった。野武士的 (に映っていた)先輩たちが多くて、夜回りで渋谷のセンターに上がると、酒盛りが始まっていて、「おい、来い来い❗️」と誘ってくれてビール🍺🍻やツマミをご馳走になりながら、先輩たちの特ダネ話や武勇伝を聞かせてもらった。

ヤマタメさんとは、忘れられない思い出がある。1976年6月25日のことだ。新人記者として、集中豪雨の中を鹿児島局に赴任したばかりの私を待っていたのは、「死者、行方不明30数人」という土砂崩れ災害だった。

いきなりアッパーカットを喰らった様な衝撃を受けた。が何もできないお邪魔虫。ツルのように痩せて、見るからにカツラを付けていると分かる副部長から、「そこに座っとけ!」と言われたのが、25日午後2時過ぎ。そのうち、バイトの手伝いのようなことを、迷惑がられながらした程度で、時は過ぎて行く。

夕方になって編集マンのK野さん、後で名前を知るのだが、から「君、新人?ちょっと」「はい」初めて声をかけられたのが嬉しくて、返事はいい。「土砂降りの中すまんが、玄関前の角のタバコ屋で、『マリーナ』買ってきてくれないかな」これが鹿児島赴任後の最初の仕事だつた。

夜「ニュースセンター9時」が始まる前辺りから、災害現場で取材していた記者、カメラマン、ライトマン、それに社会部、映像取材部の東京勢、福岡勢の応援組が続々と放送部の狭い報道フロアーに上がってきて、立錐の余地もない。

ソファーに座っていると叱られそうなので、一番隅の椅子に移動していると、そこも人が来て居づらくなる。その時デスクの後ろからニュースを読む声が聞こえてきた。「そうかニュースは、テレビだけでなく、ラジオでもやっているのか」初めて気がついた。

そして午後11時過ぎ、明日の分担を決める打ち合わせに入る直前、災害応援デスクとして福岡局(社会部だったかもしれない)から、派遣されて来た「ヤマタメさん」が登場する。

「おーい、みんな何も食ってないだろうから、弁当を取る。この時間で開いているのはどこだ」と、バイト学生たちの方を見る。「『鰻鉄』です」「よし、じゃ鰻だな。ダメなヤツはいるか❓いないな。じゃ何人だ、イチ、ニイ、サン、シ・・・24人だな」その時、ヤマタメさんと目が合った私は、思わず右手を挙げた。空腹で目が回りそうだったからだ。「誰だ、君は?」「今日来た新人記者で小俣一平と言います」「そうか、新人か、じゃ入れたらなあかんな、25と・・・」関西弁でこう言うと、ギスギスしていた報道フロアーから一斉に笑い声が出た。

古来、「食い物の恨みは恐ろしい」と言われるが、私の場合は有り難かった記憶しか残っていないのは、ヤマタメさんのお陰だ。社会部で再会した後も、いつも親しみを覚えていた。どうやらお元気らしい。嬉しい😃😆😊😂ね。

老人力の良いのは、記憶がファジーで、良いこと、愉しかったことはすぐ思い出すことやね。

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コメント

  1. やまため より:

    鹿児島うな重事件、フォロー感謝、事実関係誤記訂正感謝、というより貴兄の記憶にあったとは驚き。半ば遠慮がち半ば抗議の横顔、小生は憶えていますよ。あのころの小生、ピーク。九州を動かしていると己惚れ。それが社会部に行ってただの人いやそれ以下的存在。深夜、明け方までの部会、デスク・部長の吊るし上げ、今テレビでおなじみの、深々と頭を下げてのゴメンナサイの連発。腹の中は「バカヤロウ」そしてゲジが登場して粛清ムード。転向者相次ぐ。社会部冬の時代。新人小俣記者「うなぎにありつく事件」がこういうふうに繋がるとは世の中面白い。