山田英幾さんの墓参りに出かけた。山田さんのことは、このブログでも何度か登場しているので繰り返しになる部分があるかもしれない。少し詳しく書くのは、亡くなってから16年経って、みんなの記憶からだんだん消え去ってしまい、「去る者は日々に疎し」を実感するからだ。自意識過剰気味だった山田さんにしたら、53歳で逝った無念以上に、忘れ去られることは耐えられないだろう。どんなことでも自分を思い出してもらえれば、例え笑い話として登場しても喜ぶ、と四半世紀付き合い、死の床まで見守ってきた私はそう確信している。
<お墓のある大平町まで、元町中華街駅から歩いて行った。元町もまだ閑散としていた>
彼はN協会鹿児島放送局時代の後輩だが、年齢は2つ上だったので、長幼の序を重んじる私は、ホンマかいなぁ〜、赴任してきてすぐに「山田さん」と呼んでいた。するとそのうち放送部の、そしてだんだん局中の人が、「さん」「君」と敬称をつけて呼ぶようになった。おかしい。
最初に会ったのは、1979年6月。赴任当日鹿児島市和田町だったか慈眼寺近くの県道が大きく陥没した現場だった。梅雨の蒸し蒸しする中、紺色のブレザーにグレーのズボン、黒革ブーツを履き、手には黒革のアタッシュケースを下げ、背は低いがキリとした面立ち、ちょっとイギリスの貴族っぽいところがある品のいい男だった。「なんじゃ?コイツ‼︎」が第一印象で、妙に貴族っぽいと感じたのは、そう的外れではなかった。のちに分かったのだが、父方も母方も祖父は貴族院議員、父親はT京藝術大学教授にして、N協会交響楽団の指揮者だった。そして彼が付き合う女性は、超有名人や芸能人のお嬢さんで、まるでテレビドラマの世界の人だった。N協会って結構こういう人がいるんだなぁ。それを誰も気にも留めない、当たり前だけど、そこが良いところだった。
<元町にある伊東屋 山田さんも文房具好きだった。万年筆はモンブラン149を鹿児島時代から愛用。私も真似て上京後すぐに買った。いまだ健在>
出生地は神奈川県葉山町で、葉山をこよなく愛していた。小学校から大学までA山学院でフランス文学を専攻していた。父親と同じ洗礼名ピーターを名乗っていた根っからのキリスト者だった。その辺も妙に山田さんらしかった。卒業後は、K應義塾の仏文科に再入学して、Y稚舎に落ちた雪辱を晴らした。そのため2つ年上ながら3年後輩というねじれ現象が起きた。
当時の我々の周辺は、父親が山田一雄ときいても、「誰?」という程度で、その辺のことは、誰も詳しくないから、ポルシェやコスモを乗り回す、目立つ人というイメージが強かった。しかも彼にとっては日常会話の延長だが、登場する名前が芸能界の大御所や有名人で、それがキザと受け取られた。しようがないわなぁ。しかも東京から追っかけて来ていた彼女が、T映スターの娘だったので、羨望もあった。そのうち福岡から転勤して来た社会部出身の故福田肇デスクが大のクラシックファンだったので、初めて父親が偉大な指揮者だと知った。かといってこれまでとは何も対応は変わらなかった。
<葉山家具 一枚板の机が65万円 山田さんなら買うだろうな。ちなみに私が書斎で使っている古い机は彼の形見分け 引き出しを開けると山田さんが愛したパイプタバコの匂いが漂ってくる 好い香りだ>
パスタは食べても、蕎麦、うどん、ラーメンは食わないというスタイルだったが、だんだん鹿児島のラーメンの虜になるという単純さが、イイ奴だなと思わせた。がそれは後の事で、ずっと「山田さん」と言いながら、「あっちに行って」「こっちに取材に来て」と普通の後輩として付き合ってきた。それは死ぬまで変わらなかった。それにY田哲彦さん、哲ちゃんという善人がスーツを着て歩いているような1年先輩(歳は4つ下?)がいたのも、彼にとっては幸運だった。
<お墓への途 Fェリス女学院下のトンネルを抜けると「麦田」本牧通りの交差点を「柏葉通り」方面へ進む、「柏葉入り口」の信号を左折して横浜駅根岸道路を進むと200メートルほどで「大平町入り口」の信号 これを右折して「日蓮宗 大圓寺」の方へ向かう 石川石材店真向かいの根岸共同墓地に山田さんの墓はある>
山田さんは、侠気があって、プライドの高いK児島大学の学生より愚直なK児島経済大学の学生を露骨に可愛がるようなところがあって、学生アルバイトだけでなく女性陣からも絶大な人気だった。驚いたのは、いつもツンツンしていたマドンナが、実は山田さんの彼女だったと知ったのは、東京に転勤して何年も経ってからのことだ。とにかく忙しいほどモテていたのに、仕事はキチンとこなし、夜回り(警察官の家を夜取材して回ること)も手を抜かず、K児島銀行荒田支店現金強奪事件の犯人を、現場の聞き込みなどからいち早くキャッチして警察に通報、警察が連行するところを全国ニュースでスクープした。
ある時は雨の日、狭い水路に落ちた小学生が流され死亡した事故を、子供の頭の大きさのボールを水路に落とし、そこに消防車から放水すると水の勢いでスルーとボールが流される実験をしたり、鹿児島市の市電が交通渋滞にどう影響しているかを、自分で伊敷町電停から市役所前まで電車と一緒に走って検証するなど、やることがハンパなかった。とにかく着想がユニークだった。奄美大島が大好きで、休みといえば潜りに行っていた。よく遊び、よく働く、理想的な記者だった。ホント。
<お墓近くの山元1丁目付近の街中華。入れ替わり、立ち替りお客さんが入ってくる W稲田軒の味とよく似たタンメンだった 山田さんも大のラーメン好きに 鹿児島ラーメンは偉大なり 彼は確か黒岩ラーメン派では?>
鹿児島に5年いて政治部へ異動。その後ワシントン特派員、国際部、BS報道番組のキャスターなど華麗な記者人生を送っていたが、亡くなる3年前に胃癌になった。手術後、すっかり元気になって、当時一人で暮らしていたA山学院そばのマンションに、家人と末娘と3人で遊びに行った。子供好きで、冷蔵庫にぎっしり入っていたデルモンテのパイナップルジュースの缶を開けて娘に何本も飲ませていた。
平穏な日々が続き、骨董通りの居酒屋で飲むまでに回復していたので、こっちはガンのことをすっかり忘れていた頃に再発。「調子が悪い」と言うから「早く病院で検査を受けろよ」と口を酸っぱくして言ったのに遅れた上、かかりつけのK應病院のベッドに空きが出るのを待っているうちに進行した。やっとK應病院に入った時は手遅れで、しかも最期は川崎市にあるI田病院に転院するという憂き目にあった。毎日2回、少ない日でも1回は通った。あれだけ通っていて死に目には会えなかった。4月20日の朝「これから市ヶ谷の私学会館で大学生向けのマスコミ説明会に行ってくる。また夕方顔を出すから」と言って別れたのが最期だった。子どもがそのまま大きくなった様な人だった。
<以前はお供えをたくさん持って来たり、ウチの家族3人でお墓の周りで宴会?を開いたりしていたが、「カラスがきて困るので・・・」と墓地の人にやんわり注意された トホホ 鹿児島の記者たちの行きつけのスナックだった『柿の実』のひろ子ちゃんから「ヨロシク❤️」と伝える。彼女が幸せな日々を過ごしていることも報告>
彼には小説『権力の階段』(新潮社)と『ヘミングウエイの刻印』(NHK出版)がある。これが山田さんのもっとも愛した一人息子T大君への最高の遺産だろう。