松井清人さん逝く 通夜(1369)

前文藝春秋社長 松井清人(きよんど)さんの突然の訃報を聞いたのは、8月17日午後5時のことだった。社外の人だが、情報の正確さでは定評がある。そこで松井さんと一番親しい、やはり文藝春秋以外の友人にメールすると「知らない」と言い、しばらくして「誤報では」と返信が来た。文春の何人かにも聞いたが知らない。会社から帰える途中の家人にLINEで訊くと驚愕している。誤報ならありがたいと思っていたが、24時間経ってやはり悲しい知らせが伝わってきた。

人生を変えた運命の人が、家族を除いて3人いる。もし出会わなかったら全く違う人生を歩んでいただろうと思う人たちだ。その一人、故 小島晋治先生については、亡くなった時に何度も書いたし、毎日新聞の書評欄でも出会いとその後を紹介した。私がNHKに入れたのも、大学教授になれたのも先生の薫陶を受けたからだ。私が21歳から先生が亡くなるまで44年間お付き合い戴いた。

もう一人は、昨年役員を退き、今年6月に定年退職して、別会社の非常勤役員になったと聞いた。まだまだ健在らしく、差し障りがあるといけないので、ここでは触れない。

そして松井清人さんだ。彼とのことは、朝日新聞「論座」のO鹿靖明さんのインタビューで少し喋っていて、それは講談社新書の『ジャーナリズムの現場から』に収録されている。

出会ったのは1982年8月だから実に40年になる。知り合ったのはその半年前の2月11日だったと思う。きっかけは羽田沖の日航機墜落事故だった。のちに逆噴射と言われる事故機の機長について取材先から事故に直結する情報を得たので、当時在籍していた鹿児島のデスクに「社会部に報告したほうがいいですよ」と話したのだが、地方局のデスクで東京未経験だと何故か抵抗子があって、「そんなもの上げられるか」と逆に強い口調で拒絶された。

それを横で聞いていた京都から前年異動してきたベテラン記者が、「おまっちゃん、今の情報は調べる価値がある。私の知り合いに松井君という週刊文春の記者がいるから話してみてくれないか」と言うので、「ええ、没になるくらいだったら教えてくれた人に悪いから構いませんよ」と了解。翌朝早く電話がかかってきた。週刊文春の右トップになったスクープ記事がそれだった。新聞で週刊文春の広告の記事の見出しを見たデスクが、「おいおい、小俣が言っていた話は本当だったんだな」だって。

松井さん31歳、私が30歳になったばかり。晩年会社内での出来事で交流が途絶えてしまったのは残念だったが、いずれ落ち着けばと思っていた。まさか永遠の別れになるとは。思い出を書き出すと相当長い文章になってしまうので、何かのきっかけで思い出したときに少しずつ書くことになるだろう。彼と出会わなければ、文藝春秋の愉しい人たちと知り合うこともなく、私の記者人生は100%異質なものになっていただろう。それだけでも、いやそれ以上だが、感謝している。

今夜(8月21日)午後5時から鎌倉市のカドキホールで開かれた通夜に出かけてきた。コロナ禍で極々親しい人たちだけということだったので、40年来の友人なら許してくれるだろうと即断した。式場で私が知っているのはA田芳生さんと週刊文春にいたI井さん、ルポライターのS森真澄さんくらいで、年配のOBや他の出版社の社長たちもいたが、面識がないのでちょっと挨拶しただけだった。よく考えると私が文藝春秋で知っているのは、松井さんを軸にした人たちだと改めて気づいた。全ての交流は彼から始まったのだから。

15分ほど前に着いたので、おそらくお会いするのは2回か3回目になる泉夫人に挨拶する。家人は足を骨折していて来られなかったこともキチンと伝えた。そのすぐ後ろに背が高い、しっかりした顔立ちの青年が立っていた。「息子さん?」。一人息子の連君だった。「あぁ〜松井さんのコピーやね。(松井さんは)嬉しかったやろうね、こんなそっくりな息子がいて」と不躾にも、というか葬儀場なのに、何度も何度も「松井さんは喜んでたやろう、よかったな」を繰り返すうちに涙が止まらなくなって困った。

ニコニコ笑う連君に、「ちょっとおじさんと写真撮ろう!」と声をかけ、泉さんの方を向くと笑っていたので、そばにいた人にシャッターを押してもらった。本来ならこの凛とした好青年の写真を載せたいのだが、許可を取るのをすっかり忘れてしまった。私は泣き顔で見っともないジジイの面立ちだった、当たり前かジジイなんだから。

一緒いたS森さんも思わず涙ぐむ。それほど面立ちがそっくりで、きっと松井さんも高校3年生の時は、こんな感じだったのだろうと思わせた。結局通夜が終わるまで、「良かったね、松井さんも」ばかり言っていたが、親族の人たちもニコニ笑っていたから寛恕してくれたのだろう。

読経が流れる中、祭壇の正面の遺影を眺めていると出会った頃やここぞという時のポイント、ポイントで話したいくつものことが思い浮かんだ。

定年後、東京都市大学に移った際、「市民大学講座」の担当になり、年に3〜4回ゲストとしてメディア関係者ばかりを招いた。当初は横浜キャンパスで、のちに渋谷駅前の東急ビル内の大学サテライトで開いていた。A木理さんや東京新聞のO場司社会部長(当時)、NHK関係ではH本大二郎さん、同期で法政大学教授のY本浩 元アナウンサー、後輩のK田靖さんなどが引き受けてくれた。そのうちの一人が文藝春秋の社長に就任したばかりの松井清人さんだった。

冒頭、「私は一切メディアには出ないと明言して実行していますが、今回だけは小俣さんの依頼は断れないので、やって来ました」と話した後、7〜80人ほどの人たちを前に、「それは週刊文春が大誤報特集をやるのを、危機一髪で助けてもらった恩義があるからです」と断った上で、校了後に印刷を止めて原稿を全面差し替え、危うく難を逃れた皇室にまつわる話を始めた。

私自身は皇室に全く興味がないものの様々な繋がりから皇室関係に親しい取材先が3人いて、その一人から聞いたばかりだった。皇室にとっては残念な話だったのでNHKではまず記事にならない。「それなら」と松井さんに電話したのだが、私が校了を知っていたからか、偶然ドンピシャだったのか忘れたが、いやそもそも松井さんからその講演で話を聞くまで、私はすっかり忘れていた。それほど私にはどうでもいいネタだが、松井さんたち編集部は大慌てで、「世紀の大誤報が出るところ、ギリギリ間に合いました」とその詳細と経緯を語った。確かH真理子さんのお祝い原稿も急遽、書き直してもらったとも話していた。講演のサワリだけで聴衆を掌握するほど話術に長けていた。司会も好きだった。

浄土真宗本願寺派龍渓寺(と聞こえた)住職。読経が長い。私は嫌いではない、むしろ好きな方だ。これをBGMのように聞きながら故人を偲ぶ。

松井さんは、私から「事件記者志望でない」と散々聞かされていたので、謝礼を受け取らない私に何らかの形で報いようと、サブカルチャー的な原稿が執筆出来るよう故 内藤厚さんを紹介してくれた。

<内藤厚さんの退職祝い 一番右端に松井さん、エッセイストの玉村豊男さんの右後ろが内藤厚さん、左端上の方の禿頭のメガネが私 半藤一利さんの顔も見える 会場の阿佐ヶ谷の回転寿司屋に「すきやばし次郎」の小野二郎さん、「はしぐち」の橋口敏郎さんもゲストで来ていた、凄い! 回転寿司屋を借り切る発想は、「文春ならではだ」と思った>

内藤さんは、『文学界』時代に T樹のぶ子さんを発掘したと言われた編集者で、『くりま』という大判の文化雑誌の編集をしていたが、当時はビジュアル文庫のデスクだった。ギョロとした目つきで、じっと顔を見据えて話すので、いつも緊張した。松井さんの頼みとあって、『B級グルメ』シリーズの常連執筆者にしてくれた。お陰で5冊、渋谷照美のペンネームでルポを書くことが出来た。これはNHKで悶々ととしていた私には、大いにガス抜きになった。NHKでは事件、文春でカルチャーもの、食い物のほか「魔球伝説 杉浦忠」なども書かせてもらった。これでますますルポライターになりたいとの思いが募った。

ゴーンというよりカーンに近い鐘音がして我に返った。松井さんの遺影は企業との社長対談か何かで見たことがある写真だったが、何だったのか思い出せない。通夜は1時間ほどして終了した。棺を覗くと穏やかな表情で眠っていた。

家に帰って葬儀の模様と連君の写真を家人に見せた途端、全く同じ反応で、彼女も「松井さんも嬉しかったでしょうね。良かったわね、こんな素敵な息子さんがいて」を繰り返した。

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