あの素晴らしい友情をもう一度 940

私の人生に大きく関わった人物は、何人かいる。その中でも、35年余りも影響を与え続けた2人が、B社のMさんとKちゃんである。

最初に知ったのはMさん。鹿児島局にいた時の1982年2月9日、日航機が羽田空港沖で墜落する事故があった。この時の機長が心の病気だといち早く知った私は、「このことを社会部に早く伝えて欲しい」と鹿児島のデスクに話したところ、「そんな情報、鹿児島から東京に報告できるかぁ!」と相手にしてくれなかった。

「あーぁ」と地方局の悲哀を感じていたところ、京都から前年転勤してきたY田義彦記者が、「B社に良い記者がいるから彼に教えてあげたら。こんなニュースは、ネグっちゃいけない」と言って、紹介してくれた。それが当時33〜4歳だったMさんだった。

彼は話の内容に驚き、機長の地元や関係者を取材して、翌週の右トップで「逆噴射」機長の心的問題を書いた。鹿児島のデスクは、「おい、小俣が話していたのと同じ(内容の)記事が出てるぞ」と驚いていた。そのうち各社もニュースにし始めた。

この年の8月、異動で社会部に転勤した。Mさんから連絡が来て、初めて顔合わせをした。その時、紹介してくれたのがKちゃんだった。Mさんは他の担当に移ったのか、もっぱら窓口はKちゃんだった。だが会うときは、いつもM & Kコンビだった。どんな時も、2人一緒だった。

もしMさんと知り合わなければ、私の記者人生は、全く別のものになっていただろう。波乱万丈というのは烏滸がましいが、これほど様々な経験をしたり、愉快な仲間たちと知り合うこともなかっただろう。

◯HKではニュースにならなくても、取材していれば面白い🤣🤣🤣ネタはゴロゴロ転がっていた。2人はいつも「面白い🤣🤣」「凄いなぁー」と喜んでくれた。私が謝礼を受け取らないので、その代わりに文壇のパーティや作家の集まりに呼んでくれた。私の本当の志望が、「文化担当」だと2人とも知っていたからだ。

ひとつひとつ挙げだしたらキリがないほど、2人はいつも私のことを第一に考えて行動し、最優先で扱ってくれた、と今でも思っている。◯HKでは、ニュースにならない特捜部の人事異動を早々と週刊誌で「東京地検特捜部の極秘人事をスッパ抜く」などをスクープして、溜飲を下げた。

それに、いつもMさんは、 Kちゃんの素晴らしさを語り、 Kちゃんは、常にMさんをたてて、居ないところでも心から敬意を持って彼の人となりを語っていた。まさに「水魚の交わり」「管鮑の交わり」とは、このことだと感激した。東京に来て、これほど信頼できる人は、数えるほどだった。とにかくB社の為ではなく、Mさん&Kちゃんのためなら喜んで、という思いだけだった。

彼らが週刊誌にいれば、編集長は龍と虎、関羽と張飛を左右に置くが如くで、2人が大活躍したことは業界人なら知らない者はいないだろう。確かに編集長は天才だったが、それを支えたのがこの2人だ。

時が経ち、私は思わぬことでメデイアの表舞台から消えたが、彼らは社の舵取りを任され、社長に、常務になった。

そして今、思いがけないことが起きている。あの盟友が、同志が、刎頚の友が、あろうことか不仲と仄聞する。耳を疑った。余りに仲がいいので、周囲のやっかみを避けるための「偽計」だとおもっていた。

「権力を握ると人は変わる」と言われる。権力の側にいるだけで、大いなる勘違いをする者がメディアの連中に多いことは、間近に見て来たからよく知っている。そのために長く一緒に暮らしていた盟友を失ったこともある。

だが、MさんとKちゃんの2人だけには、そんな世俗と同様の仲違いはして欲しくない。

Mさんは、思いを遂げて社長になった。経営的に試練の多い出版業界の行く末を案じているのだろう。しかしもういいではないか。組織というのは、「俺がやらなくっちゃ‼️」と思いがちだが、自分が思う以上に、いなくなってもそれなりに転がっていくものだ。ましてや出版社は、心を豊かにする「文化を商う」仕事ではないか。

むしろかつての盟友たちを大切にして、最強だった頃のB社を取り戻して欲しいものだ。これは私だけでなく、彼らを知っている人たちも同じ気持ちだと思う。「あの素晴らしい友情をもう一度」と願うのは、私だけではあるまい。

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