昨日(9月5日)は終日家にいて、朝から締め切り間近の原稿執筆のための資料を読み、夕飯後書き始める。家に誰もいないと大っぴらにタバコが🚬🚬🚬吸える。帰ってくるまでに換気さえキチンとしておけば怖いものなしだ。
でもS野えりちゃん(86)から、「篠原会館で書道教室をやっているから、ちょっと覗いて」と言われていたのを思い出して、午前10時過ぎに顔を出した。先生が「文字を上手く書こうと思わないで、楽しく書くことが大切なんですよ」と講義しているのを聞いて、何でもそうだなと納得した。
帰るとM口敦さんの『池田大作「権力者」の構造』を読んだ。読み始めて、30年以上前に鹿児島の『春苑堂書店』で買って読んだ『墜ちた庶民の神ー池田大作ドキュメント』のリニューアル本だなと気がついて、奥付を見てみると一部加筆修正とあった。
Mさんは、私のルポライターの師匠である。鹿児島時代、週刊ポストに連載していたMさんの「新宗教シリーズ」を切り取って、ファイルして読んでいた。異動で東京に来るとすぐ会いに行った。というのも、すでに何かのインタビューで応えたことがあるが、私は事件記者など一度も志望していなかった。やりたかったのは文化学芸記者で、Mさんの様な宗教をテーマに取材したかったのだが、方面時代に鹿児島のときの習慣から夜回りなどで頑張ってしまい、結局警視庁に行くことになってしまった。
当時のMさんは、高田馬場駅から4〜5分の所の木造アパートに事務所を構えていて、トイレが和式の上、段差がなかったので、小用するのに屈んでしたことを覚えている。
押入れが全て資料コーナーになっていて、プラスチック製の衣装ケースに、コクヨの、今でもある大きなチューブファイルの背表紙にテーマ、題名を書いてずらりと並べてあるのを見て、俺もいつかはこうした事務所を持とうと思った。
それから4年しないうちに、恵比寿の酒屋さんが持っている木造アパートの四畳半を借りた。もちろんMさんの真似である。これが私の人生の最大の分岐点になる。それが良かったのか悪かったのか。自問自答するまでもなく、あれで良かったと思っている。最後の最後でどんでん返しの悪夢が待っていたけれど、青春のほとんどが、あの4年半に凝縮されていて99%は愉しかったのだから。
そういえば1988年頃、彼女と駒沢で暮らしているとき、写真週刊誌に急襲されたことがある。たまたま私は不在だったが、応対に出た彼女からの電話で、幅広い人脈を持つMさんに泣きついた。
それもイタリアに取材旅行に行っていたときで、ホテルに電話するとパリに移動したという。パリのホテルの名前を聞いて、今度はそちらのホテルに電話するとMさんが出てきた。「どうしたんですか❓おまっさん」といつもの、いささか掠れた声で尋ねられ、事情を説明して、危ういところで事なきを得た。
今考えると、イタリア語もフランス語も出来ないのに、得意でもない英語を駆使してフロントとやり取りしたのだから、切羽詰まっだときの火事場の底力みたいなもんだ。だから私も彼女もMさんには、頭が上がらない。後年彼女に逃げられた話をしたらビックリしていた。
▲私は濃いブルーの表紙の本で読んだが、ダンボール箱の中ですぐにでて来ないのだ、アマゾンで買い直した。
Mさんとは本当に仲が良くて、10歳年下の弟のように可愛がってくれた。1984年の初秋、ゴールデン街で飲んでいた時に、メディア関係の客が多い『ふらて』というスナックで、F(木啓孝)ちゃんを紹介してくれた。
Mさんが高田馬場のW稲田大学に近い新しい仕事場で、ヤクザに刺された日は、元々は私と馬場近くの確か『大正❓ホテル』のロビーで待ち合わせていたのが、急な記者会見で行けなくなり、キャンセルした。Mさんはそのため事務所に引き上げたところをやられた。責任の一端は私にあるような気がして、今でも申し訳なく思っている。救急搬送先が東京女子医大だと分かると慌てて駆けつけた。普段は家族しか入れないところを、奥さんが「親戚の者ですから」と中に入れてくれた。
当時は「一人一殺」のようなテロが横行していて、確かその4〜5年前に尾崎清光とかいう住吉会系の暗黒世界のドンが、女子医大に入院中、襲撃されて射殺された事件があった。これはまだ私が捜査4課を担当している頃で、Mさんが襲われたのは、遊軍記者の時だった。
回復した後も、臆することなく暴力団を追及し続けているところが、半端なく凄い。編集者ばかりか多くの若手ライターからも尊敬されていて、『食肉の帝王』で講談社ノンフィクション賞を獲ったときのパーティーも2次会も出席したが、みんなが本当に自分のことの様に喜んでいた。当事者でない私までも自分が受賞したかの様に嬉しかった。今回奇しくも『日刊Gンダイ』で、隔週月曜にMさんの裏番を担当することになったのも、不思議な縁だ。
記者に限らず、どんな仕事でも出会いこそが、”全て” だとつくづく思う。当たり前か。