旧友の訃報  667

高校時代からの友人、宇都宮康夫が死んだ。ガンだったそうで、今日(10月12日)親友のA部長夫から電話があった。65歳だが、10年余り音信不通で気にはなっていたが、故郷の友人の誰に聞いても何処にいるのか不明だった。実家のある北杵築の山奥で暮らしていたらしい。

▼高校1年の時に同じクラスで、彼の兄貴と私のすぐ上の姉が3年の同級生だったことや、2人で学年のトップを競っていたことから、自然と弟同士も親しくなった。特に、劣等生だった我々は、授業中教師に「お前の姉ちゃんは・・・」「お前の兄ちゃんは・・・」と、いつも比較されて腐っていたことも、親しさに拍車をかけた。

▼そんな我々の支えは学生運動で、高校1年の1月、エンタープライズ反対闘争に触発されて佐世保まで出かけた私は、帰ると早速仲間を集めて、「長髪の自由」をスローガンに、全学闘争委員会を結成した。その主要メンバーの1人が、宇都宮であり、去年亡くなった吉崎雄一だつた。

▼高校2年の初め、5月の連休明けに全学バリケード🚧🚧🚧封鎖という戦術を立て、準備に入った。まず校長室を占拠するという方針で、明日早朝に実行することになったところ、教務主任だったか、総務主任だったか、K野という温厚な先生が、「要求を受け入れるから、実力行使は中止するように」と言って来た。確か私が部長をしていた関係で、新聞部の部室を根城にしていたと思う。我が杵築高校は、あれから50年経った今も長髪だときく。

▼宇都宮は、青ヘルメット、私は当時はフロント(統一社会主義者同盟=統社同)で、緑のヘルメットをかぶっていた。杵築高校は、大分大学全共闘の影響からか反帝学評系で、自然と青ヘルが多かったような気がする。吉崎は、太田龍(栗原登一)さんに傾倒していて、確か第四インターだったようだが、あれはT北大学に行ってからか❓とにかく終始4トロだった。メンバーは17人だったことは、よく覚えているが、それは、何となく高校に不満があったからで、格別思想性があった訳ではなかった。

▼ただ明確に言えることは、高校が「序列社会」だったことへの反発があった。今で言うところの「格差社会」の原型を、成績だけで全てが決まることに対して、納得がいかない。「没個性」による管理主義に対するノンの意思表示をしたかったからだ。それは、ある意味、「人間の疎外」につながる要因を含んでいると高校生ながら感じていたから、何らかの形で粉砕したかったに他ならない。

▼まぁ昔の話だが、青春真っ只中で、今思えば私の場合は劣等感の裏返し、勉強しても姉には敵わないなら別のことでと、インテリコンプレックスから来る選択だった。恐らく宇都宮もそうだろう。彼は京都のR谷大学に進み、やはり大学でも反帝学評だった。彼女がとても綺麗な人で、でも中核派だつたから、「俺も白(中核派のヘルメットは、白だった)に行こうかな」といつも悩んでいた。この辺が我々らしい。

▼1971年6月、明治公園から一緒にデモに出て、途中機動隊と乱闘となり、私の目の前で逮捕された。あれが私でなく宇都宮だったことが、ずーと負い目になった。私は、「逃げるる、日和る、裏切る」ばかりで、社会人になった。だから偉そうなことは言えないとずーと思ってきた。今もそう思っている。私が「屁の様な人生」を送っている理由はここにある。

▼高校時代の宇都宮の、何となく自信なさげな、少し照れた様な顔が眼に浮かぶ。帰郷したら探してでも墓参りに行く。

スポンサーリンク

フォローする

スポンサーリンク