恩師 佐藤孝義先生を悼む 843

杵築の人たちの中でも、私がわざわざ葬儀に帰ったことを驚く人が結構いた。確かに小学校の3、4年生の時の担任の葬儀に、急遽飛行機で帰郷するのは、親戚か何かでなければありえないかもしれない。それは佐藤先生が人生に大きな影響を与えた恩人だからだ。

このことは、O鹿靖明さんとのA日新聞デジタルの📰🗞インタビューでも話していて、K談社新書の『ジャーナリズムの現場から』にも出てくるし、同じA日新聞デジタル『法と経済のジャーナル』の「吉永祐介とその時代」の中でも紹介しているので、読んだ人もいるかもしれないが、改めて書くことにする。

もし佐藤先生、孝ちゃんに会わなかったら記者になろうと思っていたかどうか、まず田舎の小さな町の少年が思い浮かべることは少なかっただろう。先生は今で言うところの「ゆとり教育」の実践者で、小学校3年生の僕らを引き連れて、弁当持参で🍱🍙『七双子(ならどうし)古墳』の発掘調査や五百羅漢像の見学に行ったり、史跡巡りに時間を割いていた。一昨日飲んだ晴生ちゃんは、これがきっかけで歴史好きになって「先生のお陰で今でも考古学や歴史物に目がなくなった」と話していた。

私の場合は、クラス内を5〜6班に分けての「壁新聞」作りがその後の人生を決めた。この新聞は、1ヶ月に1回ぐらいの発行で、特ダネや話題もので各班が競い合う。写真は無いので、まるでルモンド紙みたいな、代わりに絵を描いて🖼🖼アピールした。

一番の思い出は、寺町で昼火事があり、授業中の教室にもけたたましいサイレンの音が聞こえてきた。気がついた時には、私はもう外に駆け出していて、小使いさん(今は用務員さんとかスタッフと呼ぶのかな❓)の宿舎にあった自転車を勝手に借りて現場に駆けつけた。そこで火事の模様をメモしたり、怪我人がいないかを消防団のおじさんに聞いた。確か県の重要文化財を無事持ち出したような話を聞いた記憶がある。こうして教室に戻ると、佐藤先生は、叱るどころか、いきなり「どうだった、火事は❓」と聞くので、みんなの前で見てきた様子や取材話を得意になってリポートした。

私は勉強はまるっきりダメで、当時はダルマさん(3 3 3) かアヒルの学校(2 2 2)状態だったが、新聞だけは得意中の得意で、「病膏肓に入る」の例え通り 、これがきっかけで「城山子ども新聞」と言う城山地区の子ども向け新聞を、最初はカーボン紙を挟んで書いて発行していた。そのうちガリ版刷りを覚えて、小学校4年生の頃は全てガリ版印刷で、学校でもこれが流行りだしたから、田舎の小学生としては、先駆的存在だった。取材と同じように記事を書くことが大好きで、他人の分まで書いていた。

さらに愛読誌だった『少年マガジン』『少年サンデー』の常時投稿者になり、1961年の1月1日号の『少年マガジン』には、「若宮八幡の牛馬市はじまる」の記事が写真付きで掲載された。この写真はT椽義孝さんという5年生が、親父さんのカメラ📸📷でこっそり写してくれた。とにかく2年間は新聞作りに没頭して、とうとうオヤジが印刷屋さんに頼んで、「城山子ども新聞記者」の名刺まで作ってくれた。この後『事件記者』というドラマを観るようになったが、父親がM日新聞の記者だったと知ったのは、中学2年生の時で、しかもジイさんも明治から昭和にかけて九州日報(今のN日本新聞)の記者だと聞き、二度ビックリした。

佐藤先生のお陰で、24歳でN協会の本物の記者になるまで、中学、高校時代は新聞部長、大学時代は、『総合制作』という業界紙・誌を発行している会社で卒業まで3年ほどアルバイトしていた。だからN協会に合格しなくても、この会社で記者として雇ってくれることが決まっていたから、社長の言葉通り「大船に乗ったつもり」で気楽に受験できた。

アルバイトと同時に故小島晋治先生について回る書生の様な生活も続けた結果、先生のお陰でN協会に合格出来た。つまり佐藤孝義先生と小島晋治先生は、私が記者になれた恩人中の大恩人なのである。

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