西日本新聞と書評『兜町の風雲児』(1281)

先週の土曜日、3月20日の西日本新聞朝刊読書のページに、私が書いた書評『兜町の風雲児』が掲載された。今日(3月26日)その掲載紙が届いた。1週間近くかかるのは、3種郵便の上、福岡は遠んだなと改めて思う。


    

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<西日本新聞には、記事の1ヶ月間他媒体への転載を禁じる規定があって、一応ブログもメディア(媒体)ではあるので、それに倣うことにした>

西日本新聞は、九州の人間ならほとんどが知っている伝統ある新聞社だ。杵築に住んでいた頃は、我が家でも毎日、朝日、大分合同、とともに愛読紙の一つだった。

ジャパンナレッジ (『全日本百科全書』)によると、

福岡市の西日本新聞社が九州全域と中国地方の一部を頒布地域として発行している日刊新聞。『北海道新聞』『中日新聞』と並ぶ、日本の三大ブロック紙の一つ。社歴は古く1877年(明治10324日創刊の『筑紫 (つくし) 新聞』に始まる。1880年『福岡日日新聞』と改題、第二次世界大戦まで地方屈指の有力新聞として紙勢を誇った。1942年(昭和17)戦時新聞統合により『九州日報』(18874月『福陵 (ふくりょう) 新聞』として創刊、1898年『九州日報』に改題)と合併、同1942810日『西日本新聞』第1号を発行、現在に至っている。北九州地域に密着した情報と言論の公正・報道の真実をモットーとした紙面企画はつねに読者の広い支持を受け新聞界でも高い評価を得ている>

現在の発行部数は50万部ほどだが、私が鹿児島にいた頃は、100万部前後だったような。鹿児島総局があり、記者も朝日や毎日、読売と同じ規模だった気がする。

実は西日本新聞に書けたことはとても光栄に思っている。というのも少なからず因縁がある。祖父 (漢字は、殻の下に心と書く=心を殻にするから「すなお」と読む)が、前身の『九州日報』の記者をしていたからだ。祖父は、明治時初期の頃は杵築に旧制中学がなかったので大分市内に下宿して、大分中学(現在の上野ヶ丘高校)から、五代友厚が作った大阪高商(現・大阪市立大学)に進み、『九州日報』の記者となり、福岡、大分各地の支局で取材していた。祖父の単著、人名辞書など4冊が、国会図書館に残っている。(内3冊は北九州の古書店などを探して入手。1冊7万円のものもあった)

父は、「これらの本のおかげで私も兄貴も慶応に行けた」と話していほど、多大な収入をもたらしたらしい。父は祖父の影響なのか、毎日新聞の記者になったが、私は全く関係ない。むしろ祖父と父が新聞記者だったと知ったのは中学2年生の時で、すでに私は佐藤孝義先生の「壁新聞学習」の影響で、小学3年生の時には新聞記者を将来の職業にしようと決めていた。小学校時代は、『少年マガジン』『少年サンデー』に記事を送り掲載されたり、ガリ版刷りの『しろやま子ども新聞』を発行していた。

<祖父と父は顔がそっくり。私は100%母方。早藤(はやふじ)家の血脈だ>

私の上の2人の姉はいずれも高校教師になったし、私の3人の娘のうち上の2人は劇団やデパートに勤務、記者とは関係のない職業についた。末の娘は、この春から3年生で就職活動を始めるのか進学するのか聞いていないが、2年生の頃は「アフリカで国際援助活動をしたい」と言っていたから、また違う道を目指すのかもしれない。それは本人の自由意志なので、私から「どうしたら」などとは言わないようにしている。言えば逆効果であることは重々承知。そうしてみると「売り家と唐様で書く三代目」の川柳通り、私の代で記者もおしまいかもしれない。記者ほど面白い商売はないのに、ちょっと残念な気がする。

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