立ち食いそば放浪記 【53】<峠 虎ノ門> (1460)

60代最後の1日である2月1日は、仕事でとても時間に余裕がないので、今日(1月31日)が事実上の60代としては最後の立ち食いそば巡り。幸い神保町で打ち合わせがあったので、その前に、20歳の時から50年通っている(当時はそれこそ神保町すずらん通りにあり、名称は『スタンドそば柏木』) 虎ノ門の『峠』を、都内最後の店に選んだ。

午後1時15分では、余りタネものは少ないだろうと期待はしていなかったが、幸いにも「なす🍆天」「玉ねぎ🧅天」が残っていたので、これにアジ🐟天を加えて、温かい「石臼挽きそば」で戴いた。790円(写真は千円からのお釣り。この店の特徴は、若い店主が「いくら」というと、カウンターの小銭の小山の上に置くか、釣り銭をその中から勝手に取るシステム。おじゃじさんの頃はそうはしていなかったかと)。私にとっては、名実ともに都内で掉尾を飾るお店だ❣️

すでに書いたかもしれないが、20歳の頃「太平天国」に興味を持つようになり、学生運動とは離れて、中国革命の源流を辿る研究に熱中し始めた。笑われそうだが、当時中国書籍専門の『内山書店』の2階だったか3階だったかにあった『日中学院』の夜間の教室に週何回か通っていた。その頃知ったのが、件の『スタンドそば』で、先年閉店した『キッチン南海』の隣だった。狭いそれこそ鰻の寝床のような店によく通った。学生時代を通して神田界隈に古本を求めて週に何回もうろついていて、昼飯、晩飯のいずれかは、ここで食べた。

金がない時は、「かけそば」だけを注文すると顔馴染みなった私に、こっそり好きだった「もやしのカレー炒め」をそばに乗せてくれて、ニヤリと笑っていたご主人柏木さんを思い出す。NHKに入ると初任地が鹿児島だったので、随分長く顔を出せなかったが、航空記者会議で上京したときに何年かぶりで訪れると、「どうしてました?」と訊かれて、「今鹿児島にいるんですよ」と話が弾んだ。

東京に戻ってすぐに顔を出したら店は閉まっていて、行く方が分からなかった。確か『キッチン南海』の反対隣が不動産屋だったか、そこのご主人に、「もし連絡がつくなら、今何処で店をやっているか知らせてほしい」と名刺を渡しておいたら、しばらくしてNHKにハガキが届いた。そこに書かれてあったのが、虎ノ門の『峠』だった。警視庁だったか司法クラブだったか、とにかく霞ヶ関に10年以上いたので、以後よく通った。奥さんが楽しい方で、寡黙なご主人とは真逆の話好きだった。

一度、「茅場町にも店を出そうかと物件の良いのを探しているんですよ」と話されていた。その頃の私は、まだ『現代産業情報』の故石原俊介さんと仲が良かったので、茅場町はホームグラウンドのようなもので、「あの辺りは証券マンが多いから、サッサっと食べていける立ち食いそばは、流行るかもしれませんね」などと呑気な話をしていた。

愛宕山の放送文化研究所に移ってからは、週に何度も顔を出した。大学に移ってからも研究所の専門委員をしていたので、たまに寄っていた。その頃だったか、息子さんが後を継いで、3人で店に立っていたこともあった。そのとき、茅場町の話は、息子に暖簾分けするつもりだったのかなと思った。

このところのコロナですっかり足が遠のいていたので、息子さんに挨拶すると、「たまに話に出ますよ」とご両親の近況を聞かせてくれた。「親父は80を越えて、のんびりやっていますよ。お袋も元気で、店に来ると口うるさいんで来るなって言ってるんですよ」と笑っていた。好い息子だ。

70年の人生で、ここまで長い付き合いは他にない。赤坂の『とど』がなくなった今となっては、あとは46年の付き合いがある鹿児島の『勝ちゃん』、36~7年になる新宿荒木町の『さわ野(旧・万作)ぐらいだろうか。

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