鹿児島空港の上空を全日空機が旋回する。生涯最初で、今のところ最後だと思うが、touch and goを既に2度繰り返している。パイロットが直接アナウンス。「今度着陸できない場合は、福岡空港に引き返します」「あっどうしよう🤭🤭🤭 今日中に局に行けなくなってしまう」それでなくても窓の外は叩きつける大粒の雨で何も見えない。不安はつのる一方。だが10
分後、最後の着陸に成功した機体は、ゆっくり、パッセンジャーボーディングブリッジに接続した。
1976年6月22日正午過ぎのことだ。あれから44年が経過した。
まだ鹿児島空港と鹿児島市内の高速道路が直接つながっていない、加治木町経由だったので、高速バスは1時間以上かかった。途中期待した桜島もハッキリ見えず。土砂降りの雨は市内でも変わらず、西鹿児島駅のバスターミナルで待ち合わせたはずのNHK鹿児島放送局職員は、誰も迎えに来ていなかった。30分待ってからタクシーに乗り、当時天保山町にあった放送局に向かった。「NHKまでお願いします」というと、運転手さんが「あっ放送局ですね」と言ったのが鮮明に記憶に残っている。
午後2時前、1階の受付で新人記者だと説明すると、すぐ奥にある総務部の副局長のところに連れて行かれた。副局長はT嶋さんという、確か記者出身の方だったと思う。その場に呼ばれた担当の女性職員がアパートのことを真っ先に説明してくれた。この人が良い人で、「新人で初任地ならお金もないでしょうから共済会で借りることができますよ」と教えてくれた。ありがたい人だと感激した。「放送部は2階です」と言われて、ボストンバック1つを下げた私は、彼女の後ろから、ずいぶん古めかしい階段を上がって行った。確かプレハブ住宅を強固にしたような建物だった。
放送部は、ザワザワしていた。女子職員に副部長を紹介されると後は私1人。K川さんと、後でわかる副部長は、自己紹介を聞くとすぐに、「そこのソファーに座って」と指示して、会話は終わった。放送部の西側半分はニュース部門らしく、その中央に広い白のテーブルがあり、それを囲むようにコの字型に茶色の合成皮革のソファーが並べられていた。よく見るとその正面にホワイトボードが設置されていて、鹿児島県内の地図が描き出されていた。真ん中に桜島と思しき真丸の曲線が右側の陸地にくっついていて、「桜島は大隅半島側なんだ」と当たり前のことを確認した。その地図には、輝北2人、垂水3人、宇宿9人など場所と数字と書き連ねられていた。
<1976年当時の写真が無くてネットからの引用です 朝日新聞>
窓の外は、止むことのない豪雨。「そうかぁ、集中豪雨で被害が出て、てんやわんやなのか」と鈍い私はやっと気づいた。ずーと座っていても誰も何かを言ってくれるわけではない。ひたすら沈黙。時折、外の取材から帰った記者、カメラマン、学生バイトの3人組がドカドカ音をさせながら雨合羽、ゴム長靴姿で現れ、どこかへ消えていく。それが繰り返されるうちに、ニュースの部屋は人でいっぱいになり、ソファーじゃまずいだろうと、フイルム編集のコーナーに空いた椅子を見つけて座った。間髪を入れず、「おい君が今度来た新人記者か」と声をかけられた。すかさず「すまんがね、ちょうど頼まれてくれる⁉️」と。「えっ🤯🤯ええ😊😊😊 」嬉しくなった私は、大きな笑みを浮かべて次の言葉を待っていた。
「正面玄関の斜め前にたばこ屋があるから、マリーナ1箱買ってきてくれる」と小銭を渡された。幾らだったか記憶にないが、店の前が水浸しで、革靴の私は泣く泣くその中を買いに走った。これが私の新人記者としての最初の仕事だった。
この日、鹿児島県は集中豪雨による土砂崩れなどで死者、行方不明者が32人に上った。私の記者人生はここからスタートした。