今朝(7月4日)から「熊本・鹿児島に記録的豪雨、大雨特別警報、これまでに経験したことのないような大雨が降っていて、警戒レベル最高の5」と二ユースが繰り返えす。鹿児島で6年間、毎年のように集中豪雨を体験してきただけに、他人事とは思えない。熊本と鹿児島の県境と聞いただけで、「あー、出水、大口、菱刈、吉松辺りかなぁ」と40年余り前の県境地図が頭に浮かんだ。今は大口市と伊佐郡菱刈町が合併して伊佐市になったんだ。
44年前、新人記者として赴任して2日目。1976年6月23日の午前5時前に、鹿児島市宇宿町の土砂崩れの現場に出かけた私は、生まれて初めて見た災害の模様に度肝を抜かれてしまった。実家のある大分県杵築市も台風などで床上浸水を経験したことがあるが、レベルが違いすぎた。
午前5時過ぎ、日が昇ったのをみて、行方不明者の捜索のため待機していた自衛隊や警察、消防、市の職員などが、どどと一斉に現場に入っていった。赤いフェルト布に白字でNHKと染め抜かれた腕章をした私も彼らの後ろから、ロープを潜ってついて行った。
降り続いていた小雨も止んで、時々薄日が差し込んできたり、また降り出したりを繰り返す。とりあえず行けるところまで、ぐんぐん進む。ショベルカーのゴーゴーという音や大きな石を積んだダンプカーが移動するときに注意を促すぴっぴっという甲高い警笛が聞こえ、時折作業員の怒声が飛び交う。
恐る恐る警察官に「NHKですが・・・」とメモ帳を片手に、今日の作業員の数、開始時間、作業車両の台数など、誰でも知りたいことを聞いた。「あそこは何百立米、そこは何百立米」と説明されても、そもそも立米(りゅうべ)という言い方を知らなかったからイメージが湧かない。
「9人の行方が分からないと聞いたんですが、それはどこですか」と訊き終わらないうちに、「あそこに・・・」と戸板に貼り出された模造紙の方を指差した。それは報道用ではなくて、作業員向けの現場の略図だった。お礼を言って、すぐ描き写したが、鹿児島市の地図が頭に入っていないのだから、市全体の何処に宇宿が位置しているのか皆目分からなかった。
それにしても鹿児島の警察の人たちは、押し並べて報道には親切だった。この後ずっと3年余り鹿児島県警を回って、いつもそう感じていた。ところが1982年に社会部に異動して、警視庁を担当したら、全然対応が違う。当たり前といえば当たり前かもしれないが、取り付く島がないほどシビアなのには驚いた。
それでも鹿児島県出身の警察官と分かるや、鹿児島に6年間いたこと話すと、「今度鹿児島県人会をやるから」と声をかけてもらったことがある。練馬の居酒屋の2階を借り切ったところで開かれた懇親会では、いかに鹿児島出身者が警察官に多いかを知った。このときは、20人余りと飲んで、ナンコ(鹿児島の遊びで、お箸を3本持って手の内に隠して、今握っているのは何本かを当てさせる)大会で優勝した。
こうして現場を回った後、疲れて三洲病院の玄関の軒下の、確か階段の一番上に座っているうちに、だんだん眠くなって眠り込んでしまった。「NHKさん、NHKさん‼️」の声で目が覚めた。第一交通の運転手さんが、「局に電話するように、無線に言ってきました」と、慌てた様子。「えっ🤯🤯⁉️」困った。NHKの電話番号を知らない。運転手さんに教えてもらって、病院の入り口にあった赤電話で連絡すると、もちろん名前を知らないデスクが怒鳴る。「原稿どうなってるんだ‼️現場の状況と雑感を送れ‼️」「えっ😨😨🤯🤯ボクが原稿を書くんですか⁉️」「何言ってんだお前、そのために現場に行ったんだろう」泣きたくなった。災害現場の原稿などN協会の研修所でも習わなかった。しかし抗弁する余裕はない。もう11時ぐらいだったと思う。不幸中❓の幸いだったのは、さっき記者になったんだからと、色々聞いて回ったのが役に立った。
とにかく聞いた話のメモを見ながら、電話で原稿を送った。ほとんど「勧進帳」と呼ばれる、原稿なしでソラで伝えた。記者2日目にしては、大胆不敵な態度だが、原稿用紙など持っていないし、自前の手帳は書くところが既にメモでいっぱいだから、それしか方法がなかった。原稿を送った途端、「こんなに遅かったら間に合わんだろう」と再び大目玉を食らった。赤電話の前で何度も何度もお辞儀をした。「あっ🤭🤭もうすぐ正午のニュースだ」と駐車スペースに止めてあった第一交通に飛び乗り、運転手さんにラジオをつけてもらった。
しばらくするとラジオからアナウンサーの声で、当たり前だけどその時は不思議な気がした、「9人の行方が分からなくなっている鹿児島市宇宿町の現場では午前5時過ぎから、警察、消防、それに自衛隊などおよそ200人余が出て捜索作業を始め、今も続いています」さっき送った原稿が読まれている。それも全国放送で、続いて「先ほどもお伝えしましたが、鹿児島市宇宿町の・・・」と同じ原稿が、さっきと違うアナウンサーの声で聞こえてきた。後で分かるのだが、それは福岡からのニュースで、生まれて初めて書いた原稿が、全国、九州全域、そして鹿児島ローカルで放送された。このことは一生忘れられない。
それにしても、現場では、邪魔にならないようにしながら、あっちに行ったり、こっちに来たり、今では考えられないほど自由に回れたから、どうにか原稿にすることができた。今だったおそらくそんな取材は難しいだろう。赤い腕章(今は濃いエンジンに変わっている)の威力にも畏れいった。小学校3年生の時に新聞記者を志してから16年目にしてプロの記者になった。