鹿児島赴任から1ヶ月(1142)

鹿児島に赴任してからの1ヶ月は瞬く間に過ぎた。集中豪雨が終わると夏の激しい日差しが照りつける。それでも宇宿町の現場に通ったり、追悼式などの節目節目の取材に出かけたり。その合間に、真砂本町の2Kの鉄筋コンクリートのアパートを借りた。入るとすぐ右にトイレと風呂、廊下を挟んで左に台所、その奥が6畳、さらに右側に4畳半の部屋。そこを寝床にしていた。風呂付きの部屋を借りたことで、「社会人になったな」と嬉しかった。

<鴨池に鹿児島空港があった頃撮影された真砂本町や三和町周辺 ネットから引用>

仕事の方は、新人ということで受信料の集金に5日間ほど、営業マンや委託集金人さんと過ごし、途中から一人で回った。

東京の研修中にも大田区大森営業所のS王地域で、営業実習をやったが、連日集金人さんよりも沢山受信契約を取ったことから、4~5日だったか1週間ほどして、営業マン4人から公園に連れて行かれ、「君は短期間だから面白がって集金してるだろうが、我々はこれがずっと仕事なんだから、自分たちのペースを考えているんだ。今日からは喫茶店かどこかで時間を潰してくれ」と懇願された。もちろん喜んでハイハイと言うことを聞いた。

その時の大森所長が記者出身で、穏やかな、お公家さんのような顔立ちの人だった。一度渋谷区青葉台の豪邸に、大森で営業研修を受けた新人記者たちが招かれた。のちに社会部で一緒だったS水もいたと思う。私は、本当に大分のごくごく田舎の長屋の端っこの生まれなので、初めて自分で作る手巻き寿司、ローストビーフ、フライの山、西洋野菜がいっぱいのサラダなどなど、これまで食べたことがないようなご馳走を沢山振る舞われて、「N協会にいるとこんな豪華な暮らしが出来るのか‼️」と驚嘆した。

後にわかるのだが、彼は大企業グループの一族で、実家が大金持ちだったから豪勢な暮らしが出来たので、「給料は小遣いだよ」と記者時代から知る研修所の教授(当時はそういう肩書きだった)から聞いてビックリした。氏は退職するとその会社が持つ美術館に勤められていて、確か館長だったと記憶するが自信がない、東京に異動して遊軍(自由になんでも取材できる部署)担当になった時に取材させてもらった。

            <赴任先は鹿児島放送局放送部>

まもなく赴任先が決まるという時期になって、突然研修所のF長校長(政治部出身の方で、社会部の1年先輩の父上)から呼び出された。「営業成績が抜群に良いらしいね。営業(経営管理❓)の部長からウチに欲しいが、来ないか訊いてくれと打診があったがどうかね」と尋ねられ、「ええっ😨😨😨小学3年生の時から記者になりたかったので・・・」と丁寧にお断りした。今振り返ると、セールスには向いていたのかもしれない。

               <郡元の電停 ネットから引用>

担変(部署を変わること、つまり記者から経営管理とか営業とか)させられそうになったことに懲りて、鹿児島での営業研修は、言われたことだけ、郡元周辺をそこそこやった。その地域はアパートのある真砂本町に近かったので、一人で回る午後からは、部屋に戻って水風呂に入ったり、昼寝したりして過ごし、夕方になると局に上がって顔を出して、「不在の家ばかりでした」と報告した。もちろん何軒かは回ったが。

<この噴煙が夏場は降灰となって、鹿児島市側に降りそそぐ>

先輩たちの「災害から1ヶ月」の企画ニュースが終わってしばらくすると本格的な全国規模の人事異動があり、それに伴い鹿児島局内でもニュース部内の”移動”が行われた。御多分に漏れず、鹿児島県警本部、検察、裁判所、消防、第10管区海上保安本部など、いわゆる事件事故中心の通称「サツ回り」の担当となった。キャップはY野敏行さん、8月いっぱいまでは、K峰丈郎さんが県警本部や裁判を担当、その後も時々カバーに来てくれたし、私はもっぱら署回りという鹿児島中央、西、南の警察署をぐるぐる、まさに「回り」だった。

とにかく暑かった、鹿児島の夏は。しかも桜島の火山灰がこの時期鹿児島市内に流れてきて、窓を開けて部屋を出ると室内中灰だらけになってビックリした。そういえば、はじめの頃、朝起きると顔がザラザラしていて、「何だこりゃ~」と動転した。洗濯物は休みの日か夜に局の備え付けのものを使わせてもらった。とにかく家にいる時間より局や警察、天文館で過ごす時間が長かった。

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