敗戦記念日(1146)

早いもので7月21日で、落選してから1年が経つ。と言っても私が選挙に出たことすら知らない友人、知人も少なくないだろうから改めて書くと、昨年の参議院選挙に(全国)比例区に立候補した。支持基盤はなし。労組はすでに確保されているのでお願いすることすら憚られたし、地方議員や国会議員もどこかの労組の支援を受けての当選なので迷惑をかけるわけにはいかないことから応援は一切求めず。私自身の人間関係とそこから派生する人達だけが頼りという最初から心もとない選挙戦だった。結果は10140票、22人中18番目。全体で見れば惨敗だったが、私的には、この数字の一人ひとりの顔が目に浮かぶ有難い数字だった。

この1年間は、忌中同様静かに過ごしてきた。飲みに行くのは選挙の時も最後まで見捨てず応援してくれた仲間たち。他の友人知人を避けていたわけではないが、相手が気を遣うだろうとこちらから声をかけることをしなかった。大勢で飲んだのは、3年ぶりに開かれたN協会の同期会ぐらいだった。この間、振り返らないようにしても、どうしてもあの時はどこにいた、何処を回って来たなぁ、などと回顧の日々だったが、今更ながら全ては私の意思なので後悔は全くない。ただ私が死んだ後に何も記録として残っていないのは、物書きの端くれとして残念なので、時々筆の端に載せていきたい。

なぜ出馬してのか⁉️と出た時も落ちた後もよく訊かれた。大義としては、民主主義を破壊する傍若無人、理不尽が大手を振って罷り通る今の安倍政治にストップをかけたかったのが、最大、かつ真っ正直な理由だ。

これにいくつか複合的な要素が加わる。一番大きかったのは、67歳という年齢にあった。加齢の通過点に過ぎないが、私には意味のある歳だった。もし68歳の時に選挙があったなら決断しなかったと思う。67歳は、父親が癌で死亡した年齢である。物心ついた時から肺結核で病床にある父を見て育ったことから、小学生の頃は、死に対する思い、父が死んだらどうしようと考えることが成長期に大きく影響している。中学生になった頃はすっかり回復していて家族一同安堵した。

その父が30余年前に他界し、自分はその歳までにやりたいことは、出来うる限りやってみようと考えた。それは大したことではなく、20歳の頃に思い描いた職業だったり、訪問したい各地だったり、誰もが何となくやってみたいという程度のことごとだった。既に本や新聞記事などに紹介されているけれど、社会人になる前に考えた、やってみたい職業は、新聞記者が1番だった。小学3年歳の時以来、ずっと変わらぬ希望だった。次が大学講師、教授より自由に行動できるだろうと考えていた。その次が古本屋。郷里杵築の我が家にも沢山の父の本が残っているが、大学1年生の秋に覚えた古本屋巡りは、「病膏肓に入る」の例え通りだった。

そして政治家。これは私が高校生の時、父に参議院選出馬の話があり、9割方決まっていた。「さぁ‼️」と言う時に、健康診断でストップがかかった。その頃は随分身体も回復していたから、周囲も本人も、そして家族も大丈夫だろうと高をくくっていた。父の失意は想像を絶するものがあった。それまで大分県内で、テレビやラジオ、新聞、講演活動は、全ての道はローマに続くが如く、政治を目指していたからに他ならなかった。30代でM日新聞記者を辞め、大学講師や教授をしながら、敗戦後の大分で社会運動や労働運動をやってきた心の炎が、消滅してしまった瞬間でもあった。

出馬を決意したもう一つの大きな理由は、まさに出馬すら出来なかったら父の無念を思ったからに他ならない。それは父が死んだ歳までにやってみたいとの願いとも重なった。かつて親しかった友が、私の出馬を聞いて思わず「『やっぱり』と言った」と人伝てに聞いたが、彼女が間髪を容れずにそう反応したのは、おそらく30年以上前、既に私の心の奥のどこかにその思いがあったことを感知していたからだろう。その点でも「出馬」出来たことはよかった。

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