O治浩之輔さんの『埋もれた報告』上映&講演会にゆく(1196)

暖かい。一昨日と同様汗が出る。会場はチョット分かりにくかったが、タバコを買ったセブンイレブンのお兄さんが親切で、わざわざ外まで出てきて教えてくれた。大きな駐車場の裏なので、知らないと見つけるのに時間がかかるはずだ。しかも全く案内板もなく、「ホール」の文字を見つけて勘で3階の会場に。

入り口で受付を済ませ、やっと1席空いていた所に座ったが、案の定まだ始まっていなかった。後で主催者が話しているのが聞こえてきた。「普段は40人も来れば多いのに、今日は70人以上で驚いたわ」私も想像以上だったので「ほー」と思わず声をあげたほどだ。隣のマスクの男性から「おー小俣さん」と声をかけられ⁉️⁉️ディレクターのN澤さんという放送文化研究所で1年ほど一緒だったことがある、 2011年福島原発事故の初期に被曝地に潜入して良い番組を作った人だ。確かW稲田の大学院でも教えている。

間もなく1976年12月に放送され、芸術祭大賞を受賞した調査報道番組『埋もれた報告』が始まった。もう何回見たことだろう。毎年大学や大学院の授業で使ってきたから、次に誰がインタビューで登場するかまで分かっている。それでもこうして会場で離れた席から観ると新鮮だ。水俣病が公式に確認されたのは1956年だが、チッソの責任が判決で確定したのは1973年、その後も潜在患者が続々出てきた。その背景は工場排水が原因と分かっていながら排水や漁業規制をしなかった国や熊本県の政策があったことを告発したのがこの番組である。

インタビューで何度も登場するO治浩之輔さんは、当時41歳。社会部遊軍記者として脂が乗り切った絶好調のころだ。1976年正月から取材を始め、2月4日に初めて休みを取ったところ、翌々日の6日にロッキード事件が発覚した。結局7月に田中角栄前総理が逮捕され、灰色高官などの取材で9月まで社会部は大忙し。しかも司法クラブ出身の遊軍記者だったO治さんはなおのこと。「それが落ち着いた9月から再取材を始めて、12月に放送というのは、相当ハードスケジュールだった」と講演でも話していた。

私がO治さんと会ったのは、1979年だ。水俣病の取材で熊本へゆく前に、わざわざ鹿児島空港で降りて来てくれたのは、彼と同期の故 福田肇さんがデスクでいたからで、福田さんが「小俣という変わった記者がいるから見に来てくれ」と頼んだらしい。それはO治さんから聞いた。当時の私は政治部希望で、社会部は全く考えていなかった。大治さんは天文館で飲んだ後、騎射場の『勝ちゃん』で私とY田哲ちゃんに午前4時過ぎまで、社会部の面白さを語りながら、取材先との向き合い方、問題意識の立て方などを経験談を通してトコトン話してくれた。おそらく午後8時前にスタートしたと思うから8時間近くO治節を聞いたはずだ。かくして私はその後志望を変えて、82年に社会部入りした。O治さんの話を書くとキリがない。とにかく人生でこれまで会った記者、ジャーナリストの中でも屈指の人だった。後にも先にも彼ほどすごい記者、影響力のある記者に会ったことはない。今日の話を聞いてもジャーナリストO治浩之輔健在なりと再認識した。かくありたい。

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