半藤一利さん逝く(1233)

半藤一利さんが亡くなられた。深夜のネット配信で知った。東京新聞も朝日新聞も朝刊で伝えていたが、毎日新聞には出ていなかったから一報は、消防の119番通報か警視庁、消防庁のルートで入手したのだろうか?もし共同配信だったら毎日新聞にも出ているはずだから、東京新聞は独自のルートでキャッチしたのだろう。

ここ10年余りは、さすがにお付き合いがなかった。90歳で老衰というのは、理想的な亡くなり方だと介護の授業で習った。大往生と言えるだろう。

半藤さんとは執筆仲間だった。と言うのは畏れ多すぎるが、文春ビジュアル文庫『B級グルメシリーズ』の「東京自由自在」と「おいしい銀座2」に一緒に原稿を掲載してもらった。

最初に面識を得たのは、同じ文藝春秋のM井清人さんに社内喫茶室「サロン」で紹介された。その時、「この人(=半藤さん)は、M井さんをかなり気に入っているんだな」と会話の調子からわかった。あとは四谷若葉町にあった『万作』(いまの荒木町『さわ野』)で飲んでいるところに出くわしたり、他の編集者たちとの会合に混ぜてもらったり。とにかく大先輩として若い社員たちから敬われていたし、信頼を得ていることがみんなの対応を見て、他社の人間ながらよくわかった。

最近のブログ『あらきそば』で登場したB級グルメの編集長 故内藤厚さんのデスク席で、半藤さんと編集部のH本英子さんとが、親子のように仲良く話しをしているところに遭遇したら、「渋谷さん、半藤さんも今度の本にお書きになるんですよ」と声をかけられた。当時の私は編集部や執筆仲間からは、「渋谷照美さん」とペンネームで呼ばれていた。そのとき半藤さんは、B級グルメライターとしての肩書き「ダウンタウン・アナリスト」というのが気に入っているというような話をした記憶がある。ご本人か?さんが付けたのだろうか?内藤さんとは実に気が合うように見えた。雑誌『くりま』の先輩後輩だったからなのか?その辺は文春の人間でないので分からない。

ただ当時は随分保守的な人だったように思っていたが、世の中がドンドン右傾化していくと、半藤さんあたりが「リベラル」と言われれているのを聞いて、「世の中、ここまで来たか」と驚いたことがある。

<「おいしい銀座2」>

それ以上に世田谷区代沢のご自宅と私が当時住んでいたNHKの社宅が路地を隔ててすぐそばだったので、プライベートでも行き来があった。奥さんが気さくな方で、当時小学生だった長女も次女もお二人から随分可愛がってもらって、遊びに行くたびに「これを読むといい」と半藤さんが推奨する本をもらって帰っていた。

<東京自由自在>

代沢の、駅でいうと井の頭線「池の上」、その斜め前のビルの2階にある料理店『古庵』で、バッタリお会いした時のことだ。「こっちにおいでよ」と、武蔵野女子大学教授で文芸評論家の故大河内昭爾さんと飲んでいる席に呼ばれた。私はもっぱら聞き役だったが、当時の私は、後に『無念は力』として発表するノンフィクションを書き始めたばかり。半藤さんから「プロの作家、物書きになるなら毎日書くことです。毎日マスを埋める、書き続けることを習慣にしなさい」と励ましていただいた。それから4〜5年して件の本を上梓した。

<初めてお会いした頃 こんな感じでかっこ良かった>

深夜机に向かっている時、たまに半藤さんの言葉を思い出す。結局、まとまったノンフィクションは3冊書いたところで50代を終わってしまった。以後はルポを書いたり、論文を書いたりと「書く仕事」は続けているが、それも段々先細りになってきた。結局2003年の『無念は力』から2017年の『トイレ探検隊がゆく!』まで14年間で単著5冊、共著11冊。

私が最後に「介護」をテーマにしたルポルタージュを書こうと考えている。半藤さんの言葉はこれからも何度か甦るだろう。

ご冥福をお祈りします。

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