面白すぎる溝口敦さんの『喰うか 喰われるか』(1320)

この2週間で読んだのは2冊。溝口敦さんの『喰うか 喰われるか』(Kindle版)は、近年読んだ中でも、抜群に面白いノンフィクションだった。内容を書くと誰も買わなくなるから簡単に紹介すると溝口さんのルポライター50年史のようなものか。面白すぎて、家人に話したら彼女もすぐに読んで、「やっぱり大家は違うわね^_^」と感激していた。それはサスペンスや推理小説、翻訳小説、歌舞伎、演劇、文楽中心の読書しかしない彼女には珍しいことだった

1965年に早稲田を卒業して入社したアサヒ芸能出版、今の徳間書店の編集者兼ライター時代を皮切りに、『血と抗争』『反乱者の魂』を三一書房から出版したフリーランスの頃、さらに博報堂時代、その後再びフリーになって一連の山口組、一和会を中心としたヤクザ、組織暴力団の生態を刊行したり雑誌に発表したりして、どんどんノンフィクション作家としての地位を築いていった過程が詳らかにされている。

このブログのプロフィールにもう何年も前だが、青臭く「尊敬する人」を5人提示していて、そこには、本田靖春さん(故人)、原寿雄さん(故人)と一緒に溝口敦さん、元毎日&朝日新聞記者の村山治さん、元日刊ゲンダイ編集長&BS11の二木啓孝さんを記していて、その気持ちは今も変わらない。

溝口さんに会ったのは、上京してしばらくしてからのことだと思う。鹿児島局にいた頃から溝口さんに傾倒していた。早く会いたかったが、東京に”上がった”ばかりの私は、社会部のルーティン取材をこなすのに精一杯で、とても余裕を持って人に会える状況ではなかった。しかも着任して1週間もしないうちに起きた「三越ペルシャ秘宝展事件」を、朝日新聞にスッパ抜かれ、私が担当した5方面の池袋に三越百貨店があったばかりに、取材チームに編入されてしまった。抜かれネタを追いかけるのは辛い。いつの間にか警視庁記者クラブ、それも捜査2課担当の下請けをやらされて、その後はとうとう警視庁→司法記者クラブと事件記者になってしまった。

<『喰うか喰われるか」の本文中に出てくるように全共闘に人気だった          私も学生の時に買った>

鹿児島局時代、事件取材に精魂傾けたのは地方局の記者が東京の報道局にアピールできるのは事件取材が一番だからだ。県警交通部長のスピード違反や三島村ー鹿児島市ー鹿児島県庁の汚職事件をスクープし続けたことで、私もY田哲ちゃんも故 山田英幾さんもストレートで社会部や政治部に異動できた。H本明徳君はN H Kスペシャルの「戦艦大和」の制作などで認められたと仄聞した。

私は全く事件記者が好きではなかった。このことはこのブログに何回も書いたから、友人たちはまたか〜とウンザリしているかもしれない。だから、あの三越事件がなかったら、違う形の放送記者になれていただろうし、そうすればSヤンにも会うことがなかったから100%違う人生で、それは彼女も全く同じだろう、もちろん今の家族もいなかったと思う。

私は社会部に行ったら文化記者、宗教担当記者になりたかったのだ。それは溝口さんが週刊ポストに連載していた新宗教団体の連載を毎週読んでいたり、『池田大作 権力者の構造」を読んで影響を受けたからだ。私はポストの連載の第1回から、おそらく7~80回はあったように記憶しているが、全て切り取ってスクラップしてコクヨのピンクの紙製ファイルに綴じていた。なぜそこまで詳しく覚えているかというと、初めて溝口さんにお会いした時にこのファイルを持参したからで、溝口さんは照れながら「大したことないですよ」と謙虚にボソリと呟いた。その後仕事場にも伺うようになった。それは高田馬場駅から早稲田通りを、早稲田大学と反対方向に歩いて行って、右側の路地を入った所にあったように記憶する。押し入れの中を資料ボックスで埋め尽くしていた。私が恵比寿にアパートを借りて仕事部屋にしたのも溝口さんの真似であり、押し入れを資料コーナーにしていたのも同様である。トイレが板の間の和式で、おしっこするのに困ったことを覚えている。

<ほとんどの作品を持っていたし、読み込んでいたけれど研究室に置いてきてしまった>

溝口さんと親しくお付き合いさせてもらったのは記者を辞めるまでの、いや辞めさせられるまでの約20年間だろうか、つまり親しい交流は2003年ごろまでは続いた。溝口さんは忙しい人なので、私が記者でない以上、時間をつぶさせては申し訳ないという気持ちが勝って、ついつい遠慮から疎遠になってなってしまった。だから2003年に『食肉の帝王』で講談社ノンフィクション賞を受賞したときは、パーティーには参加させてもらった。これは講談社のK藤晴之さんやW瀬昌彦さんのご好意というか気遣いによるものだった。(続く)

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