「喰うか 喰われるか』つづき(1321)

溝口敦さんに初めて会ったのは、84年の秋、おそらく検察庁を回っていた頃だと思う。さっき書いた高田馬場の事務所に顔を出してからは、さらに親しくなって夜回りのときに立川の自宅に立ち寄ったりしていたから、立川に特捜検事は住んでいないから1983〜4年の警視庁時代だったかもしれない。段ボール箱の中に眠っている当時のメモを見ればきっと書いてあるはずだ。部屋には開架式の大きな本棚が何本もあって、資料がびっしり詰まっているのをみて羨ましかった。

検察周りの頃、新宿2丁目の「おしげ」に行った時、大学時代のともだちだったか?に遭遇して、「おい島田」と声をかけられたので私の方がびっくり。本名は島田敬三だった。そこで初めて、「溝口敦」が溝口に住んでいて、中島敦のファンだったから筆名にしたと聞いた。この時から、ものを書くときは筆名にしようと決めた。

溝口さんに感謝していることは、たくさんある。この前選挙に出たときも、推薦人を頼んだら、ちょっとビックリしていたけれど「ああいいですよ」と快諾してくれた。それは神田川の作詞家 喜多條忠さん、上智大教授の石川旺さんも同様だったけど。こんなことよっぽど気のいい人でないと受けてくれないし、こちらも親しくなければ頼めない。 

世話になったというのでは、一番古くは40年近く前、当時日刊ゲンダイにいたF木啓孝さんを、『ふらて』(その後『ゴールデンダスト』『四馬路』と名前が変わった)というスナックで、紹介してくれたことだろう。それを皮切りに沢山の取材先や中々会えない人たちに会わせてくれたり、紹介してくれた。検察取材は、闇社会と繋がった事件が少なくない。佐川急便事件然り、地上げ屋、街金融、みんな暴力団と通底しているから、大いに役に立った。この本の中にある山口組の組長からも会いたいと電話をもらつたし、今は堅気になっている別の組長とは、まだ付き合いが続いている。

<昔から歳を取らない>

取材以外でも沢山お世話になった。今は書けないけれど、人生の「危機一髪」を救ってもらったこともある。その後私は同様のスキャンダルで自滅したのだが、自分のことで崩壊するのは致し方ないが、私と一緒にいる事で相手に迷惑がかかるのは避けたかった。お陰で難を逃れられ、会社内でとんとん拍子で栄達した。おそらくあの時、溝口さんに助けてもらったことなど、どこ吹く風ぐらいにしか、いやそもそもそれ自体を忘れているだろう。

書きたかったのは、この本の中に出てくる1990年8月29日、早稲田の仕事場前で刺された事件のことだ。この日私は溝口さんと高田馬場駅ロータリー前のたいしょう(漢字が分からない)ホテルのロビーで待ち合わせをしていた。ところが急な会見か取材が入って行けなくなり、ホテルのフロントに電話して、当時は携帯電話などあるにはあったがデカすぎて災害の時などしか使わないものだった、キャンセルしてもらったことがある。その後週刊ポストのT内さんと会うまで時間があるので、仕事場まで一旦引き返したのだ。

<大塩平八郎の乱を描いた時代小説も書いていた この本も研究室に置いてきた>

事件を知って東京女子医大病院にすっ飛んで行った。面会謝絶だったが、奥さんが「この人は親戚だから」と言って中に入れてくれた。医師が、「若い頃から鍛えていたから命拾いした」ようなことを言っていた。その時高校時代まで柔道をやっていたと聞いた。これは医師から直接だったのか、奥さんからか、後で溝口さんから聞いたのか記憶にない。つまり責任の一端が私にあったのだ。その後もずっと申し訳ない気持ちを引きずっていた。あんなに元気になられて、その後も暴力団に堂々と立ち向かって今日、こうした本を出せたことは、とても偉大なことだと思う。それが私には、自分のことのように嬉しい😃😆😊。

この前、ある新聞社の女性記者が、記事審査室に異動になったことを、彼女本人が直接批判しているのか、周囲が抗議しているのか定かではないが、「左遷」されたことを嘆いているような文章を読んだ。彼女の書いた本を1冊読んだことがあり、若いしっかりした良い記者だと思って期待している。それで思い出したのだが。私が週刊新潮に、ちょうど20年前の今この時期、スキャンダルを書かれた。案の定私は「左遷」された、と溝口さんに嘆いたら、「何を言っているんですか、まず左遷という言い方は失礼ですよ、今そこに働いている人が何人もいて、そこが左遷先だと言っているのと同じですから」とやんわり叱責された。

さらに「ずっと走り続けて来たのですから、チョットひと休みと思って、この際思っていることを何でもやってみることです」と励ましてもらった。文藝春秋にいたK俣正剛さんからも、「晏子は3年喪に服して、そこから立ち上がったのだから」と宮城谷昌光氏の『晏子』と『孟嘗君』を送られた。あれからちょうど20年。あれを機にルポライターとして本を書きあげることを決意した。やはり、溝口さんに背中を押してもらったからとも言える。その割には恩に全く報いていない、いや報いられるような力が無いのだ。私はやはりダメな人間のまま人生を終わるのだと悔悟と反省をしている。

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