野田知佑さん逝く(1466)

宮下和夫さんの49日がすんだのでブログを再開した途端、今度は野田知佑さんの訃報が届いた。このブログって訃報告知版化してきた。すでにブログの初期の頃に書いたかもしれないが、野田さんを紹介してくれたのは、文藝春秋のK尾聡さんだった。もう30年以上も前のことだ。彼と久しぶりに、それも30分以上野田さんの話で盛り上がった。

私は1980年代半ばごろから、そう野田さんが一部アウトドアの世界で有名になり始めた頃に氏の存在を知った。今もある『BE-PAL』という雑誌が発売されて間もなくのころ、この雑誌のフリー編集者だったS藤公さんをK尾さんに紹介されたのがきっかけだった。彼が野田さんの担当者で、当時千葉県の亀山湖に住んでいた野田さんと親しかったことから、よく話題に上った。

しかもK尾さんだけでなく文春の若い女性社員たちが、野田さんが見張り番をしていた水門小屋を訪ねてカヌーで遊んだ話を、四谷の旧・文化放送近くにあった『万作(現在・荒木町の『さわ野』)』で、飲みながら聞くたびに、すっかり野田さんや椎名誠さんとは会ってもいないのに旧知の間柄のように錯覚していた。

それがきっかけで、万作さんや客であるふたちゃんことF木啓孝さんたちもアウトドアに熱中。ついにはアウトドアのプロ・自衛隊市ヶ谷駐屯地の隊員たちも加わって一大キャンプブームが巻き起こった。

私はフジタカヌーを2艇買った。1艇は当時暮らしていた彼女に進呈し、もう1艇は彼女と別れた直後、釧路川を下っていて川の中に聳え立つ原木に衝突して沈没した。1992年の夏、その頃の自分を象徴するような出来事だった。

椎名さんとは、その後松井清人さんとK俣正剛さんが主宰していた「新春会」(新潮社と文春の映画好きたちによる呉越同舟の映画批評会)で紹介され、挨拶するようにはなったが、野田さんとはなかなかチャンスがなかった。私が直接会ったのは、野田さんが鹿児島市から徳島県美波町山河内に移り住んだ後のことだ。当時私が大学院に通っていて、広島県三次市と島根県境の限界集落を調査した際、市のイベントで「江の川『川の学校』」をやることになり、ゲストとして野田さんを招く交渉を引き受けたのがきったけだった。後に奥さんになったYさんが運転して、3人で美波町から車で三次まで出かけた。遠かった。2007年5月28日のことだ。

その後、「吉野川の『川の学校』に来ませんか」と誘われて、何日か泊まり込みで出かけた。野田さんの徳島の屋敷は超超広大で、カヌー小屋の奥に自宅があり、プールのような泉水には、川で採ったエビや魚を片っ端から入れていて、それをサギや野鳥が急降下してきて食べるのを、応接間から眺めるのが楽しくて、いつまで見ていた。しかも庭内には小川が流れていて川遊びができ、実に優雅な、まるで365日アウトドア生活を体感できる邸宅だった。

東京でも会ったが、何度も「おまっさん、ユーコン一下りましょう。私がいるから大丈夫ですよ」と誘われたのに、2ヶ月以上も休む勇気がなかった。今思えば大学の夏休みを利用できたかも?残念の極みだ。

書き出すとキリがない。写真を探そうにも整理が悪いので、すぐには見つからないのでSNSから引用にした。

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