恩師の死 ③ / 525

 小島晋治先生の訃報は、東京新聞に掲載されていた。60歳を過ぎる頃から訃報はよく見るようになった。自分より若い人の死を知ると、気の毒に・・・と人ごとながら真剣に思ってしまう。だが数えで90歳まで生きられた先生は、まずは大往生といえる。小島先生が可愛がっていた、というかファンだった(私もそうだが)N協会三大美人のH理恵さんに連絡したら、相当驚いたようだったが、翌日のメールにも「まだショックをひきずっています」とあり、先生もそこまで思われていたのなら、さぞ満足だろうと羨ましかった。

  

 先生と出会うまでの3年間は、上京してからの年月だった。この頃のことは、喜多條忠さん責任編集の『ちょっと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』(実業之日本社)のp124〜130に書いた「浅川マキを聴くと想い出すこと」で触れている。

 <一九七〇年三月に大分の国東半島の付け根から上京した。生まれ故郷は古い静かな城下町で、上京したときはすっかり解放された気分だった。一年ほど経って住処を求めて訪ねたのは知り合いが住んでいた中野区上高田の学生寮だった。その知人の口利きで一四号室に泊めてもらった。(中略)大学生でもないのに、なし崩し的に居着いた寮での生活は最高だった。オカムラというスチール家具屋のアルバイトに行くか、デモに行くか、深夜早稲田通り沿いの電柱に反戦や集会のポスターを貼り付けてまわる。たまに国鉄の斉藤さんという反戦青年委員会のお兄さんが「中華一番」で餃子とラーメンライスをおごってくれる(後略)>

 

 学生寮は今はなき、東京外国語大学の日進寮で、関東大震災の時の避難場所として建てられた木造バラック一階建て。都心に近い場所なのに、とんでもなく大きな寮だった。真ん前に銭湯があり、夏はパンツ一枚で通りを横切り、風呂に入りに行った。隣の酒屋からは夜な夜なビールか日本酒の木製のケース箱を盗んできては、これを重ねて布団部屋の戸板をその上に載せ、ベッドを作った。寮生の比率は、外語の学生が6割、外部の学生が4割ぐらいか。それでも誰一人文句を言わず、平気で一緒に超格安の寮飯を食っていた。

 私が「ふたちゃん」と親しくしているF木啓孝大兄もこの寮の出身だ。といっても彼は明治だが、そんなことは誰も気にせず、たしか後に学長になったモンゴル語の権威、坂本?さんが学生部長で、たまに顔を出してはみんなと話をしていた。雑談しているうちに「君は外語じゃないのか?」「えぇプータローです」「じゃ来年はモンゴル科を受けろよ」と言われたことがある。当時のモンゴル科は比較的競争率が低かったが、レベルが高いことに変わりはなく、モンゴル語のテキスト1冊開いたことのない私が受かるわけはないと最初から諦めていた。こうした中の1971年11月、郷里の父から「デンワクレ」の電報が届いた。(私はさだまさしさんの「案山子」の歌を聴くたびに、この場面を想い出して涙が止まらなくなる)公衆電話からかけると九州だから10円玉の落ちる音の速いこと速いこと。か細い声で父は「そろそろ、どうするかハッキリしたら。2月にはもう二〇歳だからなぁ」と言った。

  1972年は鬱陶しい年だった。連合赤軍の山岳ベース事件や浅間山荘事件が大々的に報道され、凄惨な集団リンチの実態が明らかになるにつれて、スターリンによる粛清が現実のものとして実感された。私は三多摩地区にある東京経済大学に入学した。この大学はのびのびした、自由な校風でかなり好きだった。だが当時は日本共産党の拠点校で「東の東経、西の立命」と呼ばれ、T熊という全学連委員長を輩出するほどだったから、この自治会を乗っ取ることが、新左翼系の学生には重要な目標の一つだった。

  連合赤軍事件でぽっかり胸に穴が空いたような気分で、練馬区桜台の下宿に寝ていた私に、東経大のA間さんという男性から電話がかかってきた。「組織に入って貰いたいと勧誘するように言われたんだけど、どこかで会わない?」と言われた。オルグするように私の名をあげたのは、共産主義者同盟叛旗派の最高幹部、M上治さんだった。(今年1月末に渋谷道玄坂で、40年ぶりくらいに会って呑んだ。そこで話がまとまったのが、6月か7月に弓立社から刊行予定の『吉本隆明と左翼独立論』だ)

  代々木系の学生自治会は意外とあっさりというか、他大学からの応援部隊を動員して、彼らの集会に角材や鉄パイプを持って殴り込みをかけたことで、すんなり奪取できた。A間さんの綿密かつ速攻の戦術が功を奏したといえた。それからの半年近くは、立川の方の塹壕へ出かけたり、集会やデモに行ったりしたものの、何か高揚感にかけ、次第に大学にも行かなくなった。その代わりに田端駅から20分ほどの所にあった吉本隆明さんの自宅近くの零細企業でアルバイトをした。今想い出しても笑ってしまうのだが、森進一さんや青江三奈さんの写真を貼ったミュージックテープをワゴンに並べて、スーパーの入り口などで安売りするのだが、かかっている歌は森さんの声でも歌っているのは別人。カセットテープをよく見ると分かりやすい所に割と大きな文字で、別人の名前が印刷されていた。だからなのか3日間連続販売をしてもクレームが来なかったが、こんなものを買う人がいるのが意外だった。

  そのバイト先で不思議な人と出会った。I田さんという真夏でも紺のスーツにネクタイ姿のボンボン風の30代で、ハンサムだった。あるとき、どこでどう見込まれたのか、彼に誘われて北区の中企業の労働争議にかりだされた。何度か通う内に、ここで私は大失敗をやってしまった。団体交渉中に経営コンサルタントと称するヤクザのおっさんとしか見えないスーツ姿の男が、余りに横柄で態度が悪く、対応も全て木で鼻を括ったようなやりとりを繰り返すばかり、とうとう堪忍袋の緒が切れて、目の前のアルミの灰皿を投げてしまった。団交は中断、決裂。総括会議で私は、吊し上げを食らった。「この団交が持つい意味が分かっていない」とサンザン絞られ、会社側は東京都労働委員会に提訴するという騒ぎになった。私を連れていったI田さんも批判され、私は争議の人たちと離れると同時にバイト先も辞めてしまった。思い上がった学生の無責任な行為だと反省しながらも、このことは、長く長く私の心の中に澱として残っていた。小島先生に出会うまであと3ヶ月。

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コメント

  1. 二木啓孝 より:

    すべて懐かしいことばかり。
    中野区高田の外語大寮「日進寮」では、廊下を挟んで一平ちゃんと住んでいたんだな。食堂で時間切れの夕食(9時になると「食事処分~~」とアナウンスされ、腹ペコ外部者が、廊下を走って食堂に殺到した)を、おそらく同じテーブルで貪り食ったのだろう。
    それが、15年後に知り合って35年くらいほぼ一緒にいる。
    人生っておもろいよ。