恩師の死 / 523

3月6日は、生涯忘れる事の出来ない日だ。1993年、もう四半世紀前になるが、この日、自民党の最高実力者だった金丸信元副総裁が、脱税の容疑で逮捕された。司法記者は誰一人、事前に情報をキャッチすることが出来ず臍をかんだ。

そして今度は私の掛け替えのない恩師をこの日失った。小島晋治先生は、1928年2月16日生まれだから89歳になったばかり。昔風に言えば数えの90歳だ。私が産まれた1952年に「太平天国運動」を卒業論文に書き、東大東洋史学科を卒業した。以後、大妻女子や学習院高等科、東京教育大学などの非常勤講師を経て、1967年から横浜市立大学文理学部の助教授を勤めた後、東京大学教養学部の助教授、教授となり1988年の定年まで在籍した東大名誉教授だ。

  東大とは縁もゆかりもない、大学は東京経済大学、大学院は早稲田出身、それも50を過ぎてからの私にとって、なぜ掛け替えのない恩師なのかと訝る向きも多かろう。これまでにも少し文章にしているが、ほとんどの人は知るよしも無かろう。

先生は、東大助教授になった1973年以来、私にとって学業の師であり、遊びの師であり、人生の師だった。実に44年間まるまる面倒を見て戴いた。もし先生にお会いしなかったら、NHK記者にも大学教授にもなれていなかっただろう。そもそも大学を卒業したかどうかも怪しいもんだ。

1970年に大分県立杵築高校を卒業した私は、大学受験に失敗した後、2年間会社勤めをするわけでもなく予備校へも行かず、毎日毎日ぷらぷらしていた。というよりも、当時流行ったルンペン・プロレタリアートの真似事をしていた。いわゆるプータローだ。ここに行き着くまでには長い道のりがあった。毎週愉しみに見ている『東京タラレバ娘』風に書けば、もし中学2年生の時に山口県岩国市からI林宏(ひろむ)が転校して来なかったら、もし何人かの同級生同様、麻疹のように共産主義という熱病に冒されていなければ、私の人生は大きく変わっていたかも知れない。

郷里大分県杵築市は、当時でも人口2万人いない農業と漁業の小さな町だった。そこへ岩国という大きな基地の町からやって来たI林は、とても中学2年生とは思えないほど早熟な”思想家“で、田舎の中学生が名前も知らないヘーゲル、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東、周恩来の名前をあげながら、「いまベトナムで何が起きていると思うか」「中国の整風運動は・・・」と耳慣れない用語を連発しては、田舎の純真な頭も心も真っ白な我々を洗脳して行った。兎に角「『空想から科学へ』は読んだか?」と訊く。「????・・・・」昼休み時間や放課後になるとハンサムな彼の周りを何人もの同級生が取り囲み、口をあんぐり、目を瞬かせて話に聞き入った。

いま思えば、というか高校時代に気づいたのだが、彼は岩国で代々木系(日本共産党系)の教師にすっかりマインドコントロールされて、今もあるかどうか知らないが、機関誌『祖国と学問のために』を読んでいた様な気がする。私も彼の影響で「日曜版赤旗」を取ることにした、というかオヤジに「父さん、日曜版だけで良いから、赤旗取って〜な」と頼み込んだところ、「ほぉ〜」と少しビックリした顔をした後、何も聞かずに購読してくれた。

父は、毎日新聞記者出身の大学講師で、財政学や金融論の他マス・コミュニケーション論等を教えていたこともあって、家には大分合同新聞をはじめ、朝日、毎日、西日本、朝日ジャーナル、週刊朝日、アサヒグラフ、エコノミストといった一般紙や雑誌、それに社会新報、週刊民社、時々ル・モンドやニューヨークタイムズなどが転がっていた。だから「赤旗」くらいはどうとも思っていなかったのだろう。(因みに讀賣新聞は、私が高校卒業の頃杵築でも販売されるようになった)

高校に進学したころ、柴田翔さんの『されどわれらが日々』を読んだ影響か、それまでの”I林教”一筋から次第に自分なりに社会について考えるようになっていた。1年生の正月が明けた頃、日本中が原子力空母エンタープライズの佐世保寄航問題で揺れていた。その頃の私は、代々木系の人たちが平気で使う「祖国」とか「愛国」という言葉に抵抗があったり、やたらと既成政党、つまり代々木の幹部が演壇に立つて自分が国会で何を追及してきたかを自慢タラタラ喋るのを見て、陳腐に感じていた。その反動で各地で闘っていたヘルメット姿の学生たちの方が、今やらなければならない逼迫した事態、つまりベトナム反戦に直結しているように思えた。1月下旬。私は決心した、「そうだ 佐世保 行こう・・・」。

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