恩師の死 ④ / 526

 小島先生が入院していた病院は、新青梅街道沿いでバス停が真ん前にあった。お見舞いに行ったとき、窓際のベッドに眠って点滴を受けていた。お嬢さんが「眠っている間でも、これ(点滴のチューブ)を勝手に取っちゃうんですよ」と苦笑していた。「小俣さんがいらしてくれましたよ」と声をかけると、「おぉ〜」と半分目を開いた。毎日何をしているのかですかと訊いたら、「テレビのニュースと東京新聞を読むか眠っている」と言っていたから、師匠も弟子も似た者同士、奇しくも東京新聞が好きであることが、その時初めて分かった。お互いに説明がいらない同じ意識構造かも知れない。いやいや畏れ多い。

  さてあの争議の後、小島先生に出会う3ヶ月前、いや正確には5ヶ月か。悶々とした日々を送っていた私は、当時住んでいた練馬区桜台駅近くのアパートに引きこもっていた、というか、近所の銭湯と古本屋と桜地堂書店と中華料理の吉(松?)葉と通り添いのとんかつ屋を行き来する程度の外出しかしなくなっていた。

  もう冬が近づいていた11月半ばの寒い日だったと思う。争議の時に迷惑をかけた組合の幹部から電話が入った。年末闘争に応援に来て欲しいとの依頼だった。「あの件以来、仲間がドンドン抜けていった」と言われて、何と言って良いのか、申し訳なさ過ぎる上に無責任だと言われているようで苦しかった。その人は、とても実直な人で、本当に職工出身の筋金入りの労働運動家だったから、またまた「学生はダメだなぁ」と唾棄されそうだったが、「行きます!」とは、最後まで言えないまま電話を切った。裸足にゴム草履を突っかけて、長時間彼の話を聞いていたけれど、寒いとは思えなかったのをよく覚えている。人を裏切ることの重圧を一生背負って生きるんだなとその時、真剣に思った。またまた布団を被って寝る日々が続いた。そのたびにこれまで自分がやって来たことが、如何にいい加減だったかと身に染みて分かるのが辛かった。

  暮れも押し迫った頃、いつものように惰性で立ち寄った古本屋で、ボンヤリ本棚を眺めていた。立花隆さんが何かに書いていたが、「本が呼んでいる」という表現がぴったりのように、私は新書本が何百冊も並ぶ本棚から1冊だけ、「おぃ、お前が探している本は、俺だよ!!」と呼びかけている声が聞こえた。いや本当なんです。振り返ってみて、そう断言しても間違っていないと確信している。

  

  岩波新書『太平天国』は1951年に出版され、1991年に復刊された。

  平凡社の東洋文庫は今で入手可能

 

 私を呼び寄せたその本は、岩波新書の『大平天国』だった。新聞も本もマンガ雑誌も読まない日々が続いていたせいか、その反動で夜を通して読み明かした。実は、幼稚園児か小学一,二年生の頃、私は「大天国」(と覚えていた)を知っていた。というのも父が勤めていた大学の当時講師か助教授だった今永清二さん(のちに広島大学教授)が、独身時代に我が家で呑むたびに私を膝に抱いて、中国や東南アジアの英雄伝を聞かせてくれた。その中に「長髪族の乱というのがあり、洪秀全を首領として、弱い者、貧しい者のために中国各地で暴れ回った」という話を聞き、大天国話が大好きで、「もう一回、もう一回」とその話をリクエストした。そうした潜在意識が呼び起こされたのか、太平天国に興味を持つと、図書館に出かけては出来る範囲で調べていった。読んでいくうちに、体内のアドレナリンが沸点に達するような気がした。確か年末、年始にいくつかの文章を読み、最低限の知識を身につけ、一応の準備を終えると『太平天国』の著者・増井経夫先生の自宅を訪れた。

  増井先生のご自宅は、私のアパートから偶然にも4〜5分の所にあった。今考えると厚かましいにもほどがある、というか増井先生は東洋史学界を代表する泰斗で、とても私のような無知蒙昧な学生が訪ねていけるような学者ではないのに、盲蛇に怖じずの例え通り、先生の著書1冊を持ってノコノコ出かけていった。訪ないを入れると奥さんが出てきて、事情を聞くとすぐ奥に戻っていった。そのとき笑い声で「お父さん、学生さんは神様よ」と言うのが聞こえて、ホッとした。すぐに出てきたのは和服姿のはげ頭の年をめした人だった。「どうそどうぞお上がりなさい」と玄関のすぐ右側にあった畳の部屋だったか奥だったかに通された。「寒いからこたつに入りなさい」と言われ、入るとすぐに奥さんがお汁粉だったか、ぜんざいだったかを出してくれた。「若い人はコーヒーか紅茶の方が良かったかしら」と言うのを聞いて、都会の人だなぁと妙に感心した。

  先生は自分の本を熱心に読んでいることに喜んでくれ、中国の明の時代、清朝時代に遡って民衆反乱の話をして下さった。たしか午後3時前に行ったのに、途中から夕飯になって鍋を突きながら夜8時近くまで語ってくれた。その時思いがけないことをおっしゃった。「太平天国は、新中国になってぐーんと注目されるようになり、各地から当時の檄文など新資料も出てきて、中国でもいろいろな人が研究をしている。日本では横浜市立大学の小島晋治君が熱心で、これから勉強するのなら私より小島君の所に行くのが良いでしょう」

  1月は学年末試験があり、日頃大学には全く行っていない私も、試験のスケジュールを調べ、教科書は買っていなかったので「岩波新書一本主義」と称して、どの科目もそれだけで対応した。出席が重視される必修科目以外はそれでどうにかクリアした。春休みは田舎に帰った。1973年春、紆余曲折を経て遂に小島晋治先生と出会うことになる。

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