恩師の死 ⑤ / 527

 告別式は3月11日午前10時から練馬区ひばりヶ丘のシティータウンで行われた。妙蓮寺を午前8時半の電車に乗って、隣の菊名で特急に乗り換えると1時間足らずでひばりヶ丘に到着する。保育園時代、先生の自宅に遊びに連れて行って熊の人形をもらった娘も同行した。南口で降りると階段の下に、「徒歩3分 小島晋治告別式会場」と看板が出ていた。10分前に到着したけれど、2階の葬儀会場の前は長い長い行列で、控え室で30分ほど待っていると「ご焼香の順番がまいりました」と葬儀社の女性に誘導され、20人ほどが一グループになって会場に移動する。

   

 入り口に飾ってあるのと同じ、先生が講演をしているときのカラー写真が祭壇の中央に鎮座している。周りを生花が囲んでいて、「いけねぇ俺も出せば良かった」とウッカリしていたことを悔やんだ。今回のシリーズにたびたび登場する小島先生ご贔屓のH理恵さんとお父さんつながりの作家・H谷鏡子さん連名の生花が飾られていた(3枚目の写真左)。ご遺族の席に目を移すと奥さんで喪主の久里さん(たしか先生より2歳お若かったような)と長女の絵里さん、次女の史さんが一列に緒並んでいて、側で小島家初の男の子(曾孫)が泣いているのを絵里さんの娘(孫)があやしている。その後ろに姪でA日新聞甲府総局長のK原理子ちゃんの顔が見える。

 ざっと数えて200人を超す弔問客だが、その8割以上が70歳以上の高齢者と思われる。T京大学をはじめ教育関係者や市民グループ、同郷の人たち、旧制高校の同級生、獨協高校や学習院高校の教え子たちと幅広い。高校一年の娘が一番若く、葬儀社のスタッフから何度も「ご親族の方ですか?」と訊かれて、恥ずかしがっていた。

  ニュータウンの葬儀というのはこういうモノなのかと呆気ないほど事務的にテキパキこなされていき、私のようにじっくり祭壇に語りかけていると後ろがつかえてしまう。この後4〜50分ほど、3階の廊下の長椅子に座って待つ。娘はリュックサックから『中国の歴史』(明石書店)という小島先生が監修した中華人民共和国の歴史教科書を取り出し、「太平天国」のページを開いて読みふけっている。私はiPhone でKindleからダウンロードした無料の『三四郎』を読んで時間をつぶす。いやぁ電子書籍ってこんな時便利やわぁ。

  会場がざわついてきたので、2階に降りると棺桶に生花を詰めている最中だった。浅黒かった先生の顔が、長い療養生活ですっかり白くなって、頬の肉がそげ落ちていた。額と頬とに手を当てるとヒンヤリして、3月6日の死から5日経っていることを実感させた。遺言で通夜はやらないというのも、老人の多い葬儀に足下が悪く、寒い季節なのを慮っていることがよく分かった。娘と交互に花を入れていると、在りし日が想い出されて、思わず嗚咽してしまう。泣いている人なんて誰もいないのに気づき恥ずかしかった。

  出棺を待っていると、I波書店のH建朗さんの顔が見える。亡くなる直前までに先生の旧著作をI波現代文庫に4冊連続して復刻した編集者だ。「最後まで良い仕事をして下さったお陰で、先生も喜んで逝かれたとおもいますよ」と労うと、「自分でも本にして良かったと思っています」と言葉少なに語っていた。彼とは小島先生に連れられて浅草ロック座の芸術鑑賞に行った仲だ。私もあのとき以来「五代目東八千代」のファンになって、月刊B春の編集長だったM井清人さんに、彼女の美貌と踊りの上手さを詳細に語ると、翌々月だったかグラビアで特集してくれた。モノクロだったのが、とても雰囲気が出ていて好かったのを覚えている。久しくいっていないので、4月になったらすぐ行こう。

  先日お嬢さんから「火葬場まで一緒に行って下さいますか」と電話があったので、「もちろん!来るなと言われても参ります」と応えておいたので、出棺が済むと、近親者用のマイクロバスで多磨霊園に45分ほどかけて移動する。娘とはここで別れた。マイクロバスから眺める景色はすっかり春めいて、桜の蕾が膨らんでいるのが分かった。火葬場には50人ほどの老人が同行し、皆さんがお元気なのに驚かされた。ここで昔話に花が咲いて、Y浜市大の教え子グループをあいてに長女の絵里さんが応対していた。話がラジオのDJで有名なO沢悠里さんにおよぶとさらに盛り上がった。「僕は先生が内申書ですごく下駄を履かせてくれたお陰、W稲田に受かったんですよ。先生は出来の悪い生徒ほど可愛がってくれた」と本人が言っていたらしい。その流れでお嬢さんが「そう言えば小俣さんなんかも父とても可愛がって・・・」と私の話題になるのが聞こえたので、最前列にいた私が皆の方を振り返って、「その小俣一平が私です。NHK記者になれたのも、大学教授になれたのも、みんな先生のご指導のお陰です」とペコリと頭を下げたら爆笑だった。O沢さんは謙遜して、冗談めかして言ったのだろうが、私の場合は正真正銘のアホな学生だったから、先生も大変だったと思う。それはまた次回以降に。

 火葬場でバスから降り立つと、脊柱管狭窄症の痛みが右足に走る。「痛い、痛い」を連発して、しゃがみ込む。ほとんどが私より高齢なのに各酌している。僧侶のお経が済むと火葬はすぐに始められた。いまは50分ほどで済むと聞きビックリ。待合室でも昔話が次々と披露されて各席から笑い声が絶えない。お茶を一杯飲むともう終わったと声がかかる。火葬場では大きな専用台に残った白い骨を2人一組で竹の箸で掴んで白磁の骨壺に入れていく。次女の史さんに断ってそっとご遺骨を頂戴し、ハンカチに包んで持ち帰った。再度してーホールに戻ると、テーブルが料理で埋まっていた。お齋は、空腹だったことも有り残さず食べた。普段この手の料理はまず食べずに、ビールを飲む程度で早々に引き上げるのだが、今日だけは時間の許す限りY浜市立大学時代の教え子の皆さんの思い出話に加わった。

 帰るとすぐに、崩れないようにクッションビニール袋に入れ、テープで巻いて、「2017年3月11日葬儀・小島晋治先生のご遺骨・3月6日逝去」と書いた紙と共に、人間国宝・藤原雄さんの備前焼きの大壺の中に入れた。

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