山田哲夫さん逝く 831

2月20日午後4時過ぎに東京中日新聞で、論説委員長などを歴任した山田哲夫さん、通称山哲が亡くなった。70歳だった。遺族の要望で訃報は、25日の家族葬が終わってからにして欲しいとのことで、私もこれに従った。(これまで「親しい友人」とあるのは、実名に差し替えた)

山田さんというと、何だか別の人みたいなので、いつも本人にも言うように山哲と書く。何故こう呼ぶ様になったのか❓おそらく山田姓が多いため、最初は違いを示す為だったのが、段々親しくなって呼び捨てになったのだろう。

「山哲❗️」と本人を前にして平気で言っていたので、周りは同じ年か、私の方を先輩と思っている人が結構いた。人生で呼び捨てにするのは、山哲と娘のK香と同期入社や同級生、とても親しい子どもぐらいだから、最上級の仲良し👌👍とも言える。また本人も、そう呼ばれるのを結構喜んでいた。

彼は死ぬ直前まで食べることばかり言っていたという。死の2日前には、新聞社の友人たちに「もうそろそろだわなぁ〜」と呑気に電話をかけていて、電話を貰った方が、慌てて尋ねて来ようとしたという。最後までユーモアがあり、食い意地が張った愉快な先輩だった。眠ったままで亡くなったというのも、彼らしい。まさに永眠だった。

▲彼が務めていた東京中日新聞(写真は全てホームページから引用)

私が他社の先輩で親しい付き合いがあるのは、鹿児島時代を除けば、A日新聞の編集局長で辞めたM本正さんと山哲だけだ。二人とも不思議なほど仲良くしてくれた。何故良くしてくれたのかは、とうとう分からず仕舞いになったが、センター南の『南国酒家』でご馳走になっている時に、話の流れから聞いたことがある。「う〜気になるんだよなぁ〜。おかしな奴だからなぁ小俣は」と言うので、「気持ち悪いなぁ」と笑ったことがある。それだけだ。気が合うという点では、様々な事で、テイストが同じだからだと思う。これはM本さんにも通じる。

山哲話の最高傑作は、故吉永祐介元検事総長に纏わるものだ。吉永さんがまだ次席検事か、最高検公判部長の頃だから、1984年か86、7年だと思う。鳩森神社⛩🕊近くの自宅に夜回りに行ったところ、すでに山哲が来ていて、お茶🍵🍵🍵を飲みながら、吉永さんと囲碁を打っていたが、どうも山哲の方が強い様子だった。

突然何を思った山哲が、奥さんの方を向いて「吉永さんは、ここまで順調だけど、どうせ検事総長にはなれませんからね」と言ったので、私の様な小心者は震え上がった。吉永さんは笑いながら🤣🤣🤣「そうかもしらんな」と意に介さぬ様にあっさり応えたので、ホットしたのを覚えている。しかし後年、まだ吉永さんが総長になる前だが、奥さんとお茶を飲むとよくこの話をしていて、正直怒っていた。「山哲は、ああいうトンデモナイ事を突然言い出して周囲を驚かして喜ぶ奴ですから、気にすることはないですよ」と笑って誤魔化した。おそらく奥さんは、今でも覚えているだろう。総長になったときにも「山田さんに言われたこと、今でも忘れられないわ。本当に失礼しちゃうわ」と言っていたから、私が山哲に「奥さんまだ怒っとったよ」というと、「良いんだ良いんだ。あれは俺の一生の不覚。君と俺の違いだな」とこのエピソードを楽しんでいる様で、会うたびにこの話を繰り返していた。古き良き時代の新聞記者の気概と匂いを残す山哲は、権威や権力のある者を前にすると何かチャチャを入れたくなる、イタズラ小僧的なところが残っていた。

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