義兄弟サシ呑み / 586

私たちが主宰している一般社団法人「ゆかり協会」(代表F木啓孝)では、隔月最終土曜日に「ゆかりセミナー」を開催している。今月は神奈川県立がんセンター リハビリテーションセンター副室長で理学療法士のY増正樹先生を招いて、「がん予防!運動療法」の講演と実技指導をしてもらった。ゆかり協会についてはグーグルで叩けばすぐ出てくるからそちらを見ていただいて、Y増先生は、理事の一人K村由香さんのY浜国立大学博士後期課程の同窓のよしみで来てくれた。先生の話は「高齢化とがん患者数の変遷」に始まって、「身体活動によるがん抑制メカニズム」や「バランスの良い運動メニュー」の講演、続いて20人ほどの参加者による「筋力訓練」「有酸素運動」「関節可動域訓練」の実技が行われ、私も参加した。

▼最初の「つま先上げ」「かかと上げ」各20回くらいまでは気楽にやっていたが、「膝のばし」「もも上げ」40回、さらに有酸素運動の「座位での足踏み」3分あたりから、「ほぉ〜結構キツいなぁ」「いやぁ」という声が漏れはじめ、最終段階の「膝を曲げて足首をつかむ」「上半身を横に倒す」の30秒がおわったころは、「ほぉ〜」と安堵の声。42回のセミナーの中でも屈指の面白さだった。私はこのところプールや意識的に歩いたり、(電動ではあるが)自転車で遠出しているせいか、キツいとは全く感じなかった。恐らく3ヶ月前なら途中でリタイアしていただろう。理事長のF(木啓孝)ちゃんは先週、東京から石川県の能登半島まで全国2600人余のライダー達と一緒に日の出から日没までの間に集結するラリーに参加したほどで、私より2つ上だが、10歳ぐらい若い。

 大分料理「とど」(赤坂)にて

▼セミナーが終わってから久しぶりにFちゃんと2人で飲みに出かけた。特段の話があるわけではないし、大勢と一緒なら今年になって3〜4回は呑んでいるのだが、2人だけというのは今年初めてだ。郷里大分の先輩というか私が「姐さん」と呼んでいるT嶋恵子さんがやっている赤坂の「とど」に、先週に引き続き顔を出した。「とど」は大分料理の店で「りゅうきゅう」で有名。Fちゃんの会社の番組「ぶらり旅いい酒いい肴」でO田和彦さんが紹介したほど、酒と肴が美味い店だ。私は北雪好きだから、まず一杯目はこれだが、入荷があればO田さんが大好きな大分の銘酒を呑むことが出来る。この酒は、私の前妻の弟の妻の実家が作っていて、Fちゃんから「苦い酒やろう」と突っ込みが入る。姐さんも「この前、(酒造元の)会長さん(つまり前義弟の岳父)が来てくれたわよ」と追い込むので、私は神妙に「全て私の不徳のいたすところで」というしかない。いつもこの件ではひたすら謝る。とにかく謝る。こんなことなら30年前に、トコトン謝ってでも見切り発車しておけばよかった人生のターニングポイントがあったのに・・・と今さら思ってもしょうがないが、ついつい。(この辺の事情は私の親しい友人以外は意味不明)いまとなっては笑い話、いや笑えない話だが、4半世紀前の古き好き思い出である。こうした話でも、2人だと本音が出せて気軽だし構えることがない。まぁ割といつもそうだが。「こんなこと聞くなんて阿呆やな〜」と他人から思われそうなことも、彼なら平気で聞けるし、馬鹿にされることもない。

▼赤坂に来て「もゝ」に寄らずんば「馬鹿者!!」と和枝さんに叱られること必定なので覗いてみると誰も来ていない。2人して、奇しくも姐さんにもらった大分県竹田市の銘菓「三笠山」をテッシュに包んで一個ずつ持参。この辺が我々のしっかりしたところで、他人のふんどしで(姐さんはふんどしはしないか)相撲を取るじゃない、モテようとするところが同じだ。Fちゃんとは1986年以来だから実に30年以上の仲だ。すでに「雑魚亭日乗パートⅠ」のどこかに馴れそめは書いたかも知れないが、よく聞かれるので再び。

「もゝ」(赤坂)にて 

▼あれは1986年の秋の頃だった。当時ゴールデン街にあった、青森県出身の鼻の穴がやたらと大きい美人のママがやっていた、名前は思い出せないけれどマスコミの人間が沢山集まる店があった。えーっと「ふらて」だったかも知れない。60歳を過ぎてから固有名詞は自信がない。私がルポルタージュの師匠と思っているM口敦さんと呑んでいて、何軒めかにこの店に入った。MさんとFちゃんは旧知らしく「やぁやぁやぁ」と言いながら席を詰めてくれた。「この人がN協会の小俣さん」と紹介され、「えぇ知ってますよ、お名前だけは」とFちゃん。お互いの挨拶の始まりはこれだった。私も情報誌『現代産業情報』の故石原俊介さんのところでよく名前を聞いていたから、すでに数年前から認識していた。これもお互いだった。

▼話をしているうちに「初任地はどこですか」と聞かれ「鹿児島です」と応えたら「私は鹿児島出身なんですよ。M日本新聞で知り合いはいますか?」と訊ねられ、「私は取材のイロハのイから、特ダネの取り方まで全てM日本新聞の記者に教えてもらったんですよ」と応えたらFちゃんが吃驚。「H本勝紘って知っていますか?」「えぇ勝ちゃんは兄貴も同然。イロハのイから教えてくれたのはこの人とE田峯生さん、特ダネの取り方、書き方はM留三朗さんですよ。年末年始は勝ちゃんの家で過ごしていたんよ」と具体的な名前を挙げると、ますます吃驚仰天。「勝紘は、(私の)従兄弟じゃっど」「えぇおまんさぁーの?」「勝紘に電話しよう!」とその場から、当時は携帯がないためお店の電話でかけた。「なんで啓孝、一平を知ってるんじゃ」というのが第一声だったそうで、F木の従兄弟(H)の弟分、歳はFちゃんの方が上なので、私はいつも義兄(アニキ)と”畏怖”している。あの日からの30有余年は、苦も楽も酸いも甘いも全て知り合う仲で、お互いに男の兄弟がいないので、まさに義兄弟の間柄だ。どちらが先に逝っても弔辞はお互いが読むことになっているし、訃報を伝えて欲しい相手も分かっている。

▼北方謙三大先生の「チンギス紀」(月刊小説すばる5月号)の中で、異母弟ベクテルを13歳のテムジンが殺して、逃亡の旅に出た先で知り合った10歳のボオルチュと一緒に旅することになるのだが、干し肉も飲み水も酪もすべて半分ずつ分け与えてくれて           <ボオルチュを驚かせた。テムジンは、あたり前のことのように、そうしている>     という下りを、Fちゃんに会う前々日に読んだとき、すぐに「テムジンはFちゃんと一緒やなぁ」と彼の顔を思い浮かべたばかりだった。お互いに思考が似ていて、学生時代も赤へルメットの従兄弟同士のようなセクトで右往左往していて、住んでいた他大学の(T京外国語大学)日進寮も奇しくも同じだったり、共通の友人がいたりと偶然がいくつもいくつも重なり合っていた、本当に不思議な仲なのである。昔オウム事件でテレビに出ずっぱりだったFちゃんは、「オウム成金」といわれたが、ブレザーやバッグを買うときは必ず義弟の私の分も買ってくれた。私が「いいなぁ〜」とおねだり出来るのは、Fちゃんだけだ。流石にもうそんなことはないが。それにしても彼女の趣味が違っていて良かった。ただ、いまでも「高い店はFちゃん、安い店は私」という棲み分けが出来ていて、これも義兄弟ならではだ。義弟で好かった。

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