春便り〜想い出すこと / 520

 3月に入ったら届くように・・・と、「魚久」の詰め合わせを友人たちに贈った。といっても年末ギリギリに戴いたお歳暮のお返しだ。「お返し」というのは、タイミングが難しい。新年早々だと物々交換のような感じになってしまうし、間が空きすぎるとお中元が近すぎてしまう。そこで私が独自に考えついたのが、雛祭り前後に贈る「春便り」だ。

 

 モノを頂戴するのは、嬉しいようだが、ごくごく身内以外は結構苦になる質だ。これは若い時分、鹿児島時代の故・福田肇デスクの薫陶による。こんなことを想い出したのは、先月赤坂のバー「もゝ」でF木啓孝兄たちと呑んだ際に出た話題だったからで、記者の矜持を語るには好い事例だと、「最終講義」の時にも披露したからこのところ3度も登場することになる。

 もう40年近く前、記者になって3年目の夏のことだ。福岡から元社会部記者の福田さんが転勤してきた。若々しい薄いグレーの綿のスーツを着ていて、私はすぐ真似をして同様の「ダーバン」だったか「シンプルライフ」を買った。男前のこのデスクは、正義感がスーツを着ているような人で、理不尽なことは許せない、まぁ融通がきかなかった。同期のトップで東京の政治部に異動になりながら、「私は社会部希望だった」と政治部内で平気で不平を言いい、中曽根康弘担当で有りながら、「私はああいう政治は嫌いだ」と公言するので、手を焼いた政治部は、1年目の彼を希望通り社会部に出されたと我々は何人もの先輩から聞かされていた。

 「そうか、NHKにも骨のある人は、いるんだなぁ〜」と当時県警察キャップだった私と1年下のY田哲(彦)ちゃん、新人で来たばかりの故・山田英幾さんは、100%感化された。福田さんの口癖は、「速報の特ダネは、特ダネじゃ無い。誰もが知らないネタを探り当て、掘り起こして書いて初めて本当の特ダネだ」と呑むたびに怪気炎を上げ、我々に地を這う取材を求めた。

 取材だけでなく「記者の品格」も求めた。その年の国鉄(現在のJR九州)の忘年会に出席した私は、帰りぎわに広報担当の文書課係長から、他社と同様「つまらんもんじゃっどん」と、山形屋の包装紙に包まれた小さな長方形の箱を手渡された。それを持って社に上がると、夜勤デスクは福田さんだった。私は、好い気分でバリバリと包装紙を破って中を見た。確か黒、グレー、茶の3色の紳士物の靴下が入っていた。「福さん、何色が好いですか?」と訊ねると、いままxでにこやかな顔をしていた福田さんが、急に形相を変えた。「どうしたんだ、それ」「忘年会のお土産です」と平然と応えると、ドデカい雷が落ちた。「すぐ返してこい。記者はモノをもらっちゃいかん!!」

 もう午後11時は廻っていた。鉄道管理局に行ったが、もちろん広報の担当はいるはずもなく、当直に文書係長の自宅を聞き出し、夜中に玄関のベルを鳴らした。既に寝ていた係長は、驚いた顔をしたが、白い息を吐きながら事情を説明する私に、笑いかけながら「おまんさも、大変じゃが」と受け取ってくれた。

 一時が万事こうであった。正月に木遣りの取材で谷山という市の南部にある地域に出かけた。帰りしなに来た人全員に豆絞りの手ぬぐいが渡された。「わざわざ寒い中、見学に来て下さってありがとう」的な、誰でも貰えるモノだ。持ち帰ったら再び福田さんの雷が落ちた。「記者のくせに、なぜモノをもらうんだ。返してこい!!」恐らく1本100円するかしないかの手ぬぐいだ。返すために、当時のタクシー料金で往復5000円近くかけて、再び先ほどの場所に飛んでいった。

 こうした記者教育は、鹿児島にいるあいだ徹底して行われた。書き出すとキリがないが、東亜国内航空(TDA)のA300のデモフライトの取材の時には、明らかに現金が入ったと思われる封筒を「お車代です」と広報担当から手渡された際、「記者はこんなモノ貰うと、首になりますから」と他社の前でやってしまった。すると後に続く記者たちは、続々断ったり、いったん受け取った封筒を返したりして全員受け取らなかった。

 この手の福田噺は山ほどあって、若い頃から身についた習性は、とうとうN協会を退職するまで続いた。歳を重ねると振る舞い方も身につけて、どうしても拒否できない人(ほとんど記憶に無いから、退職後かも知れない)には、大分から椎茸や出たばかりの高級かぼすなどを贈って、借りを作らないように心がけた。

 いまでも貰ったり贈ったりするのは、親戚に近い、あるいはそれ以上の関係者だけだ。「俺も欲しいよ〜」とねだるのは、本当の兄以上に近しいFちゃんことF木兄と梅干しのM串栄一兄くらいなものだ。もう食べ終わったから、また梅干しチョウダイ。

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