初七日を迎えるまで毎晩、いや毎深夜、小島晋治先生を偲びながら酒を酌み交わした。交わしたというのは先生と、という意味で、午前3時過ぎから5時近くまで、独りボンヤリしながら宝グレープフルーツ缶酎ハイ+宝酒造甲類25度+グレープフルーツ濃縮果汁をブレンドしたオリジナル酎ハイを飲み続けた。このブログで、何回か前に「誤字脱字が多いのでいずれ直します」と書いたのは、酔っ払って記事を執筆していたからで、スンマセンでした。夜は夜で、以前から約束していた友人たちと早い時間から新宿のタマル商店や神保町のイカセンターで酒盛りをした。
タマル商店は新宿駅を渋谷寄りの改札から出て、甲州街道を左に観ながらずんずん歩き、大きな通りを越えて、さらにまっすぐ100メートルほど。十味と看板が出た角のラーメン屋の隣。安くて抜群に鮮度が良い魚を食べさせる。もう食い切れないというあんこう鍋のコースでも刺身や天ぷらやらいろいろ出て5980円の飲み放題。小島先生を連れて行ってあげたかったと後悔する。
<写真はいずれも西新宿 タマル商店のホームページから>
月曜日は、35年来の友人であるA日新聞のM山治さん、W稲田大学院で一緒に講義したのが縁で親しくなったO山俊宏さん、調査報道のニュースを論文で取り上げたの縁で知りあったテレビT京のA部欣司さんと、気が置けない仲間同士の飲み会。若い2人を前にM山さんと私は、1980年代から90年代にかけてのヤクザ、情報誌(紙)オーナー、証券マン、記者との繋がりや情報の流れ方のような話を具体的な事件や実見談を披露しながら、闇に蠢くネットワークについて熟々語りあう。事件好きの2人は、面白がって聴いてくれるし、彼らも事件のプロだから、それほど背景説明をしなくて理解しているので、よく喋る、というか喋るのは私がほとんどで、M山さんが私の記憶違いや間違いを指摘したり、さらに詳しい裏事情を解説したりした。他の人にとっては、たわいもない話だろうが、この取材に人生の3分の2は費やしてきたのだから、我々の思い入れは深い。
小島先生との話も披露した。大学2年生の時に出会った私は、当時テキストや論文の読み方が下手で、というより生まれてこの方、勉強というモノをやったことがなかったので、最初の1年余りは苦労したが、先生に習った本の読み方が大いに参考になった・・・と言った話だ。彼らのような本物の秀才には分かりきったことなのに、3人とも真面目に聞いてくれ、良い供養になった。こうしてあっという間に3時間が経ち、お開きになった。2次会に行くところだが、ここにくるとお腹がいっぱい、酒はたらふく飲んだので、これ以上入る余地がない。大満足、けっして客を裏切らない店で、今月は4回も行くことになっている。赤坂のももにも、大倉山のほうろく屋にも途中下車せず、A部欣ちゃんと一緒に副都心線新宿3丁目まで歩いて、そこから電車で帰った。
今振り返ると、小島先生との付き合い、といういい方は畏れ多いが、接し方としては、記者の取材手法とよく似ていたなと思うことがある。増井経夫先生の時もそうだが、①躊躇わずに会いに行く ②事前に少なくチオ著書や書かれたものを読んでおく ③熱心に聞く ④よく分からなくても何か質問をする ⑤ノート(メモ)をマメにとる ⑥キーワードを意識する ⑦帰ると聴いた話のメモを読み返す ⑧理解不足は専門書や事典で補う・・・・といった手法だ。記者の場合は先輩やキャップ、デスクに相談できるが、研究の場合は先生に会ったときに再確認することになる。だから、昼ご飯は何度も一緒だったし、研究室でお茶を飲んでから帰ったりしていた。
だんだん慣れてくると先生がとても気さくな人だとよく分かった。指導の仕方が大学助教授と言うより高校の先生のように優しく丁寧であった。1年目の冬だったか、北海道大学で1週間の集中講義をやるというので、黙って授業を受けに行った。一番前の席に座っていると、私を観た先生は大いに笑って、また苦笑しているようにも見えた。「同じ話をしにくいじゃないか・・・」と言っているような。だからなのか、講義は「概要」ではなくて、中国史に登場する陳勝呉広の乱以来の農民反乱が中心になった。このときの録音カセットテープを今も持っている。記憶に残るのは教室のスチームで暑すぎて、この温度に慣れると今度は眠くて、眠くて目を開けているのがやっとだったことだ。このように先生が講演する市民相手の小さな集まりでも、とにかくどこでも聞きに行くようにした。
その頃の私は、練馬区桜台から豊島区北大塚に引っ越していて、アパートから3分の所にあった「S」という業界新聞制作会社で週2日ほどアルバイトをしていた。この会社は、自社で新聞を出すのではなくて、依頼を受けて契約しているいくつかの専門誌(業界紙)の取材、執筆、印刷、発送までを代行していた。それは短いモノで週1回発行の新聞だったり旬刊もの、月刊ものの大手企業の社内報だったり幅広く数紙を抱え、巧い具合に交互に発行していた。だから忙しくなる毎週金曜日の締め切り、火曜日の発送の日が私のアルバイト日だった。従業員は社長、女専務、女性社員が2人、男性記者が3人、トラック運送の男性が1人だったと記憶する。
社長はたしかR教大学を出たボンボンで誰にでも優しい、穏やかな人だった。だが女性には目がない風で、専務もデザイナーも愛人だと言われていた。実際に2階の畳の部屋で、愛を確認し合っているところを、間違えて観てしまった。しかし驚くことに同様の光景を見たことのある社員がほとんどで、暗黙の了解だった。まぁオーナー企業の大らかなところだが、ちょっと池袋まで足を伸ばせばホテルはいっぱいあるのに・・・と思ったモノだ。東宝の社長シリーズを地で行くような、愛人のデザイナーが突然泣き出して、社長がなだめる場面があると、普段は「戦争中は好かったなぁ〜」ぐらいしか口を開かない発送係のN津川さんが、「ありゃ今夜は寿司屋だな」とニヤニヤしながら予想していた。そうか女の人をなだめるのは寿司屋が良いのかと妙に感心したことを覚えている。
そんなこともお茶を飲みながら先生に話すと「そりゃ盛んだなぁ」といってかっかっかっと笑った。こうした俗っぽい話も平気なところが、先生の持ち味だったが、次第に仲良くなると、先生の先々代が、茨城県古河市の遊郭の多い場所で料亭をやっていて、子どもの頃、よく遊女に遊んで貰ったと聞き、大いに納得した。私も近くに有名な元侠客が土建会社を営んでいて、入れ墨だらけの若い衆に遊んで貰った話で応じた。先生とは何か底通するものがあり、卒業までほとんどこんな感じで通していった。
3年生の冬に、「大学院に行きませんか」と声をかけて戴いた。先生のゼミでJEAN CHESNEAUXの『PEASANT REVOLTS IN CHINA 1840-1949』をテキストに使っていたので、中国の農民戦争全体か清末の捻軍の研究をしたかった。ところが先生は、「台湾をやりませんか。台湾民主国の研究や一部で研究が始まっていますが、日本人の研究者は、ほとんどいませんから」と勧められ、史明の『台湾人四百年史』や矢内原『帝国主義下の台湾』等を読んだ。とにかく1週間がすぐ経つので、時間に追われるように先生が指定した課題図書を読んだ。